
突然だが、「谷古宇(ヤコウ)」さんという苗字をご存知だろうか。
昔、私の知り合いにこの珍しい苗字の女性がいた。彼女は日本人離れした、どこかエキゾチックな雰囲気を持つ魅力的な人だった。実はこの「ヤコウ」という苗字、埼玉県草加市周辺にルーツを持つ全国に1,500人ほどしかいないレアな日本の苗字なのだが、この響き、中東の歴史を紐解くとんでもなく重要なキーワードとリンクしている。
旧約聖書に登場する、ユダヤ人の偉大なるスーパーおじいちゃん。その名も「ヤコブ」だ。
もちろん、埼玉発祥の谷古宇さんがヤコブの末裔なわけはない(もしそうなら日ユ同祖論界隈が大騒ぎだ)。……と、頭では分かっているのだが、彼女のあの少し彫りの深いオリエンタルな顔立ちを思い出すと、「いや、彼女は絶対に中東からシルクロードを渡ってきた末裔だ」と、実は今でも密かに信じていたりする(笑)。
なぜならこのヤコブおじいちゃん、旧約聖書によると神と取っ組み合いの格闘をして、そのガッツを認められて神から「新しい名前」をもらった、とんでもない人物なのだ。
その名前こそが、「イスラエル」である。
ヘブライ語で「神と闘う者」を意味するこの名前が、毎日ニュースで耳にするあの国名の由来だ。そしてヤコブ=イスラエルの子孫たち(イスラエルの民=ユダヤ人)が、神から「この土地はお前たちのものだ」と約束されたとされる場所。それが、現在世界で最も深い対立が続いているパレスチナの土地である。
前回のイスタンブール編で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は「同じ神を信じる三兄弟」だと書いた。今回は、その兄弟たちが激突するパレスチナの地で一体何が起きているのか。旅人の視点でそのパズルを紐解いてみたい。
「どっちが先にいたのか」― 噛み合わない二つの正義
イスラエル・パレスチナ問題を語るとき、必ずぶち当たるのが「そもそも、あそこは誰の土地なのか?」という問いだ。これに対する答えは残酷なほどシンプルで、だからこそ絶望的に厄介である。
どちらの側にも、「自分たちが正当な権利者だ」と主張するための根拠が存在するのだ。
ユダヤ人側の立脚点は、歴史と宗教に根ざしている。約3,000年前、ヤコブの子孫たちはこの地にイスラエル王国を建てた。紀元70年にローマ帝国によってエルサレムの神殿が破壊され、ユダヤ人は世界中に離散(ディアスポラ)を余儀なくされたが、「いつか約束の地に帰る」という信仰と民族的アイデンティティは2,000年間途切れることなく受け継がれてきた。19世紀末に興った「シオニズム運動」は、この帰還の夢を現実の政治運動として組織化したものだ。
一方、パレスチナ人側の立脚点は、居住の連続性にある。ユダヤ人がディアスポラの2,000年間を過ごしている間も、この土地には人々が住み続けていた。アラブ系の住民が何世紀にもわたって農業を営み、家族を育て、共同体を築いてきた。彼らにとっては、大昔の宗教的な権利書を根拠に、今まさに暮らしている家と土地を奪われることは到底受け入れられない。
遠い昔の「歴史的権利」と、途切れることのない「居住の実績」。この二つの正義は、どちらも否定しがたい重みを持っている。だからこそ、この問題には「正解」がない。そしてこの噛み合わない二つの正義が激突する土地に、外部から最悪のガソリンを撒き散らした者たちがいた。
大英帝国の「三枚舌外交」― 矛盾した3つの約束
第一次世界大戦の真っ只中。当時この地域を支配していたオスマン帝国を倒すため、大英帝国はなりふり構わず、あちこちに矛盾した約束をばら撒いた。歴史に悪名高い「三枚舌外交」だ。
現代の会社に例えるなら、「このプロジェクトが成功したら、君を社長にしてあげるよ」と複数の部下に同時に嘘をつき、死ぬ気で働かせた最悪の上司である。ただし、このケースでは具体的な「書面」が残っている。
第一の約束:アラブ人への独立保障(フサイン=マクマホン書簡、1915年)
メッカの太守フサインとイギリスの駐エジプト高等弁務官マクマホンの間で交わされた往復書簡。イギリスは、アラブ人がオスマン帝国への反乱(のちに「アラビアのロレンス」で映画にもなった、あのアラブ反乱だ)に協力する見返りに、戦後のアラブ人の独立を支持すると約束した。
第二の約束:英仏露による中東分割(サイクス=ピコ協定、1916年)
イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコが取りまとめた秘密協定。大戦後のオスマン帝国領を、イギリス・フランス・ロシアの三大国で勢力圏として分割するという内容だ。パレスチナは「国際管理地域」とされた。この協定はアラブ側には一切知らされていなかったが、1917年のロシア革命後、ボリシェヴィキ政権が旧帝政の秘密外交文書を暴露したことで白日の下に晒された。
第三の約束:ユダヤ人への居住地建設支援(バルフォア宣言、1917年)
イギリスのバルフォア外相が、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルド卿に宛てた書簡で表明された宣言。「パレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考える」という内容だ。
イギリス側の動機は複合的だった。ユダヤ系資本からの戦費調達という側面はあったが、それだけではない。まだ参戦していなかったアメリカのユダヤ人社会の影響力を通じて米国の参戦を促すこと、革命に揺れるロシアのユダヤ人勢力を連合国側に引き留めること、さらにはサイクス=ピコ協定で「国際管理地域」とされたパレスチナをフランスの影響力から切り離して自国の勢力下に組み込むこと―さまざまな戦略的計算が絡み合っていた。
なお公平のために付記すれば、この三つの約束が「文言上」厳密に矛盾していたかどうかについては、歴史学的に異なる見解が存在する。フサイン=マクマホン書簡が対象としたアラブ独立の範囲にパレスチナが含まれていたかは論争があり、バルフォア宣言も「ユダヤ人国家」ではなく「民族的郷土」という曖昧な表現を使い、「先住民の権利を侵害しない」という留保も付けていた。しかし、たとえ文面上の矛盾がなかったとしても、結果として当事者たちがそれぞれ自分に都合の良い解釈を抱いたまま戦後を迎えたことは事実であり、その「期待のズレ」こそがパレスチナの悲劇の導火線となった。
そしていざ戦争が終わると、ユダヤ人とアラブ人の双方が「約束が違う」と激しく対立を始めた。するとイギリスはどうしたか。
資金も余力も尽きたイギリスは、大混乱のパレスチナを新設の国際連合に丸投げして撤退してしまったのだ。自ら火を点けておきながら、消火を他人に委ねて逃げ帰る。イギリスが中東問題の「最大の戦犯」と呼ばれる所以である。
イスラエル建国と「ナクバ」― 1948年の分水嶺
イギリスから問題を押しつけられた国連は、1947年にパレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」に分割し、エルサレムを国際管理下に置くという案(国連分割決議181号)を採択した。
しかし、ずっとこの土地に住み続けてきたアラブ側にとって、人口の3分の1にすぎないユダヤ人に土地の56%が割り当てられるこの案は到底受け入れられるものではなかった。
1948年5月14日、ユダヤ人側はイスラエルの独立を宣言。翌日、納得できない周辺のアラブ諸国(エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク)が一斉に攻め込んだが、イスラエルが圧勝し、国連案よりもさらに広い土地を武力で占領してしまった。
こうして、建国されるはずだった「パレスチナ国家」は幻となり、約70万人のパレスチナ人が住処を追われて難民となった。パレスチナ人はこの出来事を「ナクバ(大災厄)」と呼ぶ。一方、イスラエル側にとってこの日は2,000年のディアスポラを経てようやく実現した「独立記念日」であり、同じ日が一方にとっての「建国」であり、他方にとっての「災厄」であるという構図が、この問題の本質的な難しさを象徴している。
その後もイスラエルは1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)でヨルダン川西岸地区、ガザ地区、東エルサレム、シナイ半島、ゴラン高原を占領。パレスチナ人の居住地はさらに圧迫されていった。
「にわとりおじさん」アラファトと、和平という幻
ここで、歴史の表舞台に強烈なキャラクターが登場する。
今の若い世代は知らないかもしれないが、90年代のニュース番組には必ずと言っていいほど、白黒のチェック柄の布(クーフィーヤ)を頭にすっぽりと被ったヒゲのおじさんが映っていた。その独特なシルエットから、密かに「にわとりおじさん」なんて愛称で記憶している人もいるかもしれない。
彼の名はヤセル・アラファト。国を失ったパレスチナ人たちをまとめ上げたPLO(パレスチナ解放機構)の議長である。
アラファトはゲリラ闘争を指揮する闘士としてイスラエルと激しく戦う一方で、1993年にはイスラエルのラビン首相と歴史的な握手を交わした。ホワイトハウスの芝生で交わされたこの「オスロ合意」は、パレスチナ暫定自治政府の設立とイスラエルとの相互承認を定め、中東和平の大きな一歩と期待された。アラファトとラビンはともにノーベル平和賞を受賞する。
しかし、歩み寄りは長続きしなかった。1995年、和平に反対するイスラエルの極右青年がラビン首相を暗殺。和平プロセスは急速に失速し、双方の強硬派が台頭していく。アラファト自身も、思い描いたパレスチナ国家の実現を見ることなく2004年にこの世を去った。
彼が被っていたあの白黒のクーフィーヤは、今でもパレスチナの抵抗と連帯の象徴として世界中で掲げられている。
なぜ「宗教の争い」だけでは説明できないのか
中東の紛争と聞くと、つい「宗教の違いで争っているんでしょ?」とシンプルに片付けてしまいがちだ。
しかし、ここまで見てきたように、パレスチナ問題の根底にあるのは宗教の違いだけではない。大英帝国の戦略的エゴ、国際社会の無責任な線引き、植民地主義の遺産、民族的アイデンティティの衝突、土地と水という有限な資源の争奪、冷戦期の大国間競争、そして2,000年にわたるディアスポラの記憶と、何世紀にもわたる居住の実績―これらが複雑に絡み合った、極めて人間的な問題なのだ。
エキゾチックな谷古宇さんがヤコブの末裔だと密かに信じ続けるところから始まった、壮大な中東のパズル。バックパックを背負って世界を歩くなら、ただニュースの表面をなぞるだけでなく、こうした「歴史のドロドロした裏側」を知っておきたい。そうすれば、いつか自由に国境を越えられる日が来たとき、そこに見える景色の解像度が一段と上がるはずだ。
和平の握手を交わしたあのにわとりおじさんも、握手の相手だったラビン首相も、もうこの世にはいない。二人が夢見た風景は、まだどこにも存在していない。
本記事についてのお断り
本記事は、筆者の個人的な旅の視点をもとに、イスラエル・パレスチナ問題の歴史的経緯をできるだけわかりやすく紹介するために書いたものである。「上司と部下」「にわとりおじさん」といった比喩や愛称はあくまで理解の入口としての表現であり、関係者や当事者を矮小化・戯画化する意図は一切ない。
イスラエル・パレスチナ問題は、現在も多くの人々の命と生活に直結する、極めてセンシティブなテーマである。本記事はいずれの立場にも肩入れするものではなく、双方の主張にはそれぞれの歴史的文脈と正当性がある。「三枚舌外交」についても、三つの文書が文言上矛盾していたかどうかには歴史学的に諸説あり、単純な善悪の物語として消費すべきものではない。
より正確で深い理解を求める方は、各当事者の立場からの資料や専門家の研究にあたることを強くおすすめする。旅先で出会う風景をより深く理解するための「最初の一歩」として、本記事が何かの役に立てば幸いだ。
▶ 前編:ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の違いをわかりやすく解説 ― ガラタ橋のサバサンドと「宗教のグラデーション」の話