
雑誌の企画で、5万円を渡された
1990年代後半、ある雑誌の企画で5万円を渡された。双葉社から出た『どっか行きたい』という旅行雑誌だったと思う。季刊の予定で創刊されたが、おそらく初号で消えた。検索しても出てこない。そういう時代の、そういう雑誌の企画だった。
航空券込み5万円でカンボジアに行けるか行けないか。それを検証してこい、という企画である。
航空券込みで、5万円。
今この数字を見て「無理だろう」と思った人は、正しい。2026年の常識で言えば、成田からバンコクまでのLCC往復が約3万円。そこからカンボジアに移動して、宿に泊まって、飯を食って、帰ってくる。5万円では、かなり厳しい。
だが90年代後半、それは成立した。行けるか行けないかで言えば、行けた。
エアインディアという選択肢
成田からバンコクまでの航空券は、エアインディアだった。
90年代の格安航空券市場を知らない世代に説明すると、当時「安い航空券」とは、LCCのことではない。LCCという概念自体がまだ東南アジア路線には存在していなかった。安い航空券とは、フルサービスキャリアのうち、人気がない航空会社の余った席を旅行代理店が叩き売りしたものである。
エアインディア、パキスタン航空(PIA)、バングラデシュビマン、アエロフロート。このあたりが「格安航空券」の代名詞だった。機材は古く、到着が遅れることもあり、機内食がカレーしかないこともあった。だがとにかく安かった。正確な金額はもう覚えていないが、5万円の予算で航空券を買い、カンボジアまでの陸路移動費とビザ代を払い、数泊して帰ってこられる程度には安かったのだ。それが全てを物語っている。
2026年の成田〜バンコクは、LCCの往復最安値が約29,000円。フルサービスキャリアなら36,000円前後が相場だ。仮に当時の航空券が今のLCCと同程度だったとしても、決定的に違うのは残りの予算で何ができたか、である。航空券以外に残った金で、90年代のカンボジアでは王様のように暮らせた。
フアランポーン駅、早朝5時の列車
バンコクに着いたら、まずフアランポーン駅に向かう。
フアランポーン(クルンテープ駅)は、当時バンコクの長距離列車の起点だった。ヨーロッパの終着駅を思わせるドーム型の屋根の下に、タイ全土への列車が発着していた。カオサンロードの安宿街から近く、バックパッカーにとっては旅の出発点そのものだった。
アランヤプラテート行きは1日2便。早朝5時台の列車に乗った。3等車両。木製またはプラスチックの硬い座席が向かい合わせに並んでいるだけの車両だ。エアコンはない。窓は全開。走り出すと熱風が車内を吹き抜ける。
物売りが車内を行き来する。ガイヤーン(焼き鳥)、カオパット(炒飯)、ガパオ、飲み物。次々と売り子がやってきて、車内がそのまま食堂になる。運賃は数十バーツ。100円か200円か、そのあたりだったはずだ。
アランヤプラテートに着いたのは昼頃。ここから国境のポイペトへ向かうのだが、このトゥクトゥクがまた個性的だった。400ccくらいのバイクを改造したサムローとでも言うべき乗り物で、爆音を轟かせて国境に向かう。
そしてカンボジアに入る。
ポイペトからシェムリアップへ、2日がかり
国境を越えた瞬間、ハイエナのような客引きに囲まれた。バックパックを半ば強引に奪われ、すでに荷物が満載のピックアップトラックの荷台に押し込まれる。当時、ポイペトには白いカムリのタクシーもあったが、カムリはバッタンバン方面が多く、シェムリアップ方面はもっぱらピックアップだった。トラック兼タクシーのようなもので、運転手は積めるだけ積み込んで稼ぎまくる。
出発しても、すぐには街を出ない。ポイペトの街中や市場をグルグルと回り、さらに客と荷物を拾い続ける。1時間以上もポイペトにいた。ようやく街を出たのは14時か15時だったと思う。
ポイペト〜シェムリアップ間に、舗装された道路は存在しなかった。幅の広い赤土の道に、深さも大きさもバラバラな穴が無数に空いている。雨季には道路が川になり、乾季には砂埃で前が見えなくなった。街道沿いには「DANGER MINES」とドクロマークが描かれた地雷警告の看板が無数に立っていた。内戦の記憶がまだ生々しく、道の外に出るな、という意味だ。
車体はガンガンに傾く。前を走っているピックアップが突然視界から消えたかと思うと、その先に巨大な陥没がある。そこを乗り越えると次の穴。その繰り返しが何時間も続く。写真を撮る余裕など一切ない。荷台の縁をつかんで、振り落とされないようにしがみつくのが精一杯だ。アジア各地を陸路で移動してきた旅慣れた人間でも、この道には根を上げた。赤土の埃は凄まじく、着ていた白Tシャツはシェムリアップに着いた時点でゴミ箱行きになった。洗っても落ちない。
そして行き先はシェムリアップではなかった。途中のシソポンで降ろされた。そもそもピックアップの運行自体が、ポイペト〜シソポン、シソポン〜シェムリアップの2区間に分かれていることが多かった。着いたのは夕方。当時、日没以降は盗賊が出るため、いくら金を積んでも運転手はシェムリアップまで走ってくれなかった。これは本当の話だ。一緒に乗っていた西洋人が「シェムリアップと言ったじゃないか」と食ってかかっていたが、運転手は「No. Danger.」とだけ言って、全員をシソポンで降ろした。英語が得意なわけではない。ただその二語で全てだった。行かない。危険だ。
近くのゲストハウスに泊まった。数ドルだったと思う。翌朝、市場に行き、シェムリアップ行きのピックアップを探す。すぐに見つかった。午後、ようやくシェムリアップに到着。
ポイペトからシェムリアップまで約150km。2日がかりだった。早朝にポイペトを出発できれば1日で着いたかもしれないが、バンコクからの移動を含めると約400kmの行程に1泊2日。これが1998年のカンボジア陸路移動の現実だった。
2026年、ポイペト〜シェムリアップ間は完全に舗装され、エアコン付きのバスが定時運行していた。所要時間は約3時間。ただし2025年のタイ・カンボジア国境紛争により、このバスも現在は運休中だ。ピックアップの荷台に鈴なりの旅行者が乗っている光景も、シソポンで「No. Danger.」と言われて途方に暮れる夜も、エアコンバスで3時間の快適な移動も、今はどれも存在しない。
シェムリアップの馴染み
シェムリアップに着いたら、宿を探す。1泊5ドルのゲストハウス。ファンルーム(扇風機のみ)で、シャワーは水しか出ない。それでも屋根と蚊帳があれば十分だった。
ちなみに、ポイペトの国境でカンボジアのビザ代として20ドルを取られる。1998年当時のレートで約2,600円。5万円の予算でこの出費は地味に重い。航空券を引いた残り予算の1割近くが、国境のスタンプ一つで消えるのだ。
実はこの旅が初めてのカンボジアではない。1995年から何度も通っていて、シェムリアップには知り合いも多かった。だから今回も、着いたらゲストハウスでぼーっとしているだけで十分だったのだ。企画の趣旨は「行けるか行けないか」であって、「アンコールワットを観光してこい」ではない。
その「馴染み」の一人が、バイクタクシーの兄ちゃんだった。知り合ったのは1995年、初めてシェムリアップに来た時だ。あの時もやはり金がなくて、アンコールワットの1日券だけ買った。彼はボロボロの50ccのカブの中古を500ドルで買ったと言っていた。遺跡のゲートをくぐった後、運転を代わってもらえないかと言うので、こちらがハンドルを握った。本当はダメらしい。
彼は職業柄、遺跡で物売りをしている女の子たちとも顔見知りで、遺跡を回るたびにちょっかいを出しに行く。こちらもつられて一緒になって話しかける。二人でカブに乗って遺跡を巡りながら、女の子たちと笑い合う。それが筆者の初めてのアンコールワット観光だった。
乳海攪拌の壁画も、第一回廊のデヴァターも、日本人の落書きとして有名な森本右近太夫の墨書も、全部あとから知った。あの時は何も知らずに、ただバイクを走らせて、人と会っていただけだ。遺跡の知識は数年後に勝手についてきた。最初に必要だったのは、知識ではなく人だった。
1998年、5万円の検証
その兄ちゃんとは、1995年以来会うたびに顔を合わせる仲になっていた。あのボロボロの50ccのカブは、1500ドルの新車のHONDA Dreamに変わっていた。3年で3倍。観光客が増え始めたシェムリアップで、彼もちゃんと稼いでいたのだ。
アンコールワットには、そもそも行かないつもりだった。シェムリアップからアンコールワットまではバイクタクシーをチャーターする必要があり、その費用すら惜しい予算だった。5万円で「行けた」という結論を持って帰ること。それがこの旅のミッションであり、遺跡観光はミッション外の贅沢品である。
ところが、馴染みのバイクタクシーの兄ちゃんが、ゲストハウスにやってきた。その日、欧米人の客を遺跡に連れて行ってチップを20ドルもらったと言って、嬉しそうに見せびらかしている。20ドル。こちらの全予算の何割かに相当する金額を、チップとして一日で稼いでいる。
翌日、その兄ちゃんが仕事を終えてから、タダでアンコールワットに連れて行ってくれた。
アンコールワットは、当時17時以降に無料で入れた時期がある。正確に言えば、翌日のチケットを前日の17時以降に購入すると、その日の夕方は無料で入場できるという制度だった。バイタク代ゼロ、入場料ゼロ。これで夕暮れのアンコールワットに入った。
さすがに帰りに屋台で飯を奢った。二人で1ドルくらいだったと思う。
2026年のアンコールワットは、1日券37ドル(約5,700円)。顔写真付きのデジタルチケットで管理されており、17時以降の「抜け道」は存在しない。バイタクのチャーター代も今は15〜20ドルが相場だ。37ドルという入場料だけで、1998年のシェムリアップで7泊以上できた金額に相当する。
だが本当に変わったのは、値段ではない。「金がないなら俺が連れてってやるよ」という関係性が、観光地化の中でどれだけ残っているか。そちらの方が、たぶん大事な話だ。
1998年の為替という追い風
この旅が成立した背景には、為替の事情がある。
1998年の為替レートは、年間平均で1ドル=約131円、1バーツ=約3.19円だった。前年の1997年にタイを震源としたアジア通貨危機が起き、バーツは暴落。それまで1バーツ=約4円だったレートが、一気に3円台前半まで落ちた。タイもカンボジアも、日本人にとって「異常に安い」時期だったのだ。
バンコクでの食事が20バーツ(約64円)、カンボジアの宿が5ドル(約655円)、ビザ代20ドル(約2,620円)。すべての数字が、今とは違う重力で動いていた。
2026年の為替は、1ドル=約154円、1バーツ=約4.99円。円安とアジアの物価上昇が同時進行した結果、同じ5万円の「現地での購買力」は当時の半分以下になっている。1998年の5万円と2026年の5万円は、額面は同じでも、中身がまるで違う通貨だと思った方がいい。
帰りは、同じ道を逆に辿る
シェムリアップに着いた翌日は、ゲストハウスでのんびり過ごした。その翌日の早朝、バンコク方面へ向かう。帰りはゲストハウスのママさんが知り合いのピックアップの運転手を呼んでくれた。シソポンで乗り換え、ポイペトへ。アランヤプラテートで1泊して、翌朝の列車でバンコクへ戻り、エアインディアで成田へ。
行きも帰りも、途中で1泊ずつ挟んでいる。バンコクからシェムリアップまでの約400kmに、片道2日。往復で4日が移動に消えた計算だ。覚えているのは、5万円で行けたという事実と、行く価値があったという確信だけだ。
同じルートを2026年に辿ると、いくらかかるのか
ここで、同じルートを2026年の価格で再計算してみる—と書きたいところだが、そもそもこのルートは今、通れない。
2025年5月、プレアヴィヒア州の国境付近でタイ・カンボジア両軍が衝突。その後、事態は急速にエスカレートし、12月にはポイペトへの空爆も報じられた。アランヤプラテート=ポイペト国境を含むタイ・カンボジア間の全ての陸路国境検問所は閉鎖され、2026年4月現在も再開していない。日本の外務省はタイ国境から50km以内の地域にレベル3(渡航中止勧告)を発出中だ。
あの赤土の道は、地雷警告の看板が立っていた頃とは別の理由で、再び通れなくなった。
仮にこのルートが再開されたとして、2026年の価格で計算するとこうなる。
航空券:成田〜バンコク往復 LCC最安値で約29,000円。エアインディアの格安航空券の代わりに、今はエアアジアXやZIPAIRがある。ただし受託荷物なし、座席指定なし、機内食なしの最小構成での価格だ。
鉄道:バンコク〜アランヤプラテート フアランポーン駅は2023年に長距離列車の発着をバンスー中央駅(クルンテープ・アピワット中央駅)に移した。3等車両も残っているが、路線によってはエアコン車両に置き換わりつつある。運賃は48バーツ(約200円)。ここだけは、大して変わっていない。
国境越え:アランヤプラテート〜ポイペト 現在閉鎖中。再開したとしても、カンボジアのアライバルビザは今も20ドル(約3,100円)。ここは30年間、ほぼ変わっていない。
ポイペト〜シェムリアップ エアコンバスで約3時間、10〜15ドル(約1,500〜2,300円)。ピックアップの荷台は消滅。
宿泊:シェムリアップ 最安ゲストハウスでも1泊8〜15ドル(約1,200〜2,300円)。5ドルの宿はもう存在しない。
アンコールワット1日券 37ドル(約5,700円)。
合計すると、航空券29,000円+陸路移動往復約6,000円+ビザ3,100円+宿泊2泊約4,000円+アンコールワット5,700円+食費等3,000円で、最低でも約51,000円。5万円では足りない。
数字の上では、もう成立しない。1998年には成立した5万円が、2026年には足りなくなっている。たとえアンコールワットを諦めて入場料を削っても、ビザ代と移動費は削れない。あの頃の5万円には、ピックアップの荷台で砂まみれになりながら笑える余裕があった。道に迷っても、予定が狂っても、「まあいいか」と思える予算の厚みがあった。2026年の5万円には、その余白がない。
そして何より、国境が開いていない。同じ5万円でも、同じ旅はできない。
消えたルート、残った記憶
フアランポーン駅の長距離列車は、バンスーに移った。ポイペトからの悪路は舗装された。ピックアップの荷台は、エアコンバスに変わった。17時の抜け道は、デジタルチケットに塞がれた。そして国境そのものが、閉じた。
このルートを構成していた要素のほとんどが、30年の間に消えた。消えたこと自体は、進歩だ。舗装された道路は快適だし、エアコンバスは安全だし、デジタルチケットは公平だ。
ただ、あの頃の旅が持っていた「分からなさ」は、もう再現できない。次の村まで何時間かかるか分からない。宿があるかも分からない。道があるかも分からない。その不確実性の中に身を置くこと自体が、旅だった。
5万円を握りしめてカンボジアに行ったあの頃、旅には「行けるかどうか分からない」というスリルがあった。2026年の旅は、スマホで全てが見える。見えることの便利さと引き換えに、見えないことの豊かさは失われた。
当時の写真がスライドフィルムのどこかに残っているかもしれない。出てきたら、この記事に追加したい。
この記事で触れた「5万円で東南アジアに出られるか」の2026年版検証は、noteの連載「10万円でアジアを出られるか」シリーズ・東南アジア編で詳しく取り上げている。30年前の実体験と、現在の数字を並べて読むと、5万円という金額の意味が少しだけ立体的に見えるはずだ。
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