マッサマンカレーはなぜタイ料理らしくないのか—文献なき料理の、旅人による考察

タイカレーを語るとき、グリーンカレー・レッドカレー・イエローカレーの三色が真っ先に挙がる。ところがマッサマン(แกงมัสมั่น)はこの三色とは根本的に異なる。レモングラスもコブミカンもほとんど使わない。代わりにカルダモン・シナモン・クローブ・ナツメグ・スターアニスといった乾燥スパイスが主役を張り、ローストしたピーナッツと大ぶりのじゃがいもが入り、ガティ(ココナッツミルク)のやわらかい甘みに包まれる。

辛みはほとんどない。タイカレーの中で最もまろやかで、生ハーブの青い鮮烈さもない。食べながら「タイにいるのに、タイにいない感じがする」という違和感を覚えた人は多いはずだ。

その違和感は正しい。ただし、なぜそうなのかを示す文献は存在しない。

唯一の事実から始める

マッサマンの起源を示す決定的な一次資料は、現時点で発見されていない。

史料上でこの料理が確認できる最古の記録は、アユタヤ後期からトンブリー期にかけて書かれた宮廷詩「カップ・ヘ・チョム・クルアン・カオ・ワン(Kap He Chom Khrueang Khao Wan)」だ。王族による料理賛歌で、マッサマンが登場する。これが示すのは「少なくとも18世紀には宮廷で食べられていた高級料理だった」という事実だけで、それ以前の経緯—誰が、どこから、いつ持ち込んだのか—は何も語らない。

以降で論じることは全て、30年以上東南アジアを旅してきた観察と、スパイス料理のデータベースを作る過程で積み上げた推論から導いた仮説だ。断言はしない。ただ問い続ける。

名前が語る命名の論理

マッサマンという名前はペルシャ語の「مسلمان(ムスルマン)」に由来する。イスラム教徒を意味する言葉がタイ語に音訳されて「มัสมั่น」になった。

ここに、ひとつの命名の論理を読み取ることができる。タイ人の視点から考えると、見慣れないスパイスの組み合わせ、牛肉を中心とした食材、異なる調理の思想—それらを目の当たりにしたとき「あれはムスリムの料理だ」という認識が生まれ、そのまま名前として定着したのではないか。「ムスリムの料理」ではなく「ムスリムが持ち込んだと認識された料理」として呼ばれるようになった、ということだ。

パタニ王国とアユタヤ—ふたつの世界の接点

マッサマンを語る上で欠かせない地政学的事実がある。

タイ南部—現在のパッタニー・ヤラー・ナラティワート—には、14世紀から19世紀にかけてパタニ王国という独立したマレー系イスラーム王国が存在していた。早くからイスラム化し、16〜17世紀の大航海時代には中継貿易の要衝として繁栄した港湾国家だ。アユタヤ・中国・琉球などと貿易関係を持ち、ある時期はアユタヤに服属し、ある時期は自立するという付かず離れずの関係を維持していた。

アユタヤ王朝(1351〜1767年)とパタニ王国(14世紀〜1785年)は同時代に並存していた。つまりマレー系ムスリムの食文化がアユタヤ宮廷に届く経路が、地理的・歴史的に存在していた。

その後1909年、イギリスとシャム(タイ)の間で英暹条約が結ばれ、マレー半島の国境線が確定した。パタニ地域はタイ側に編入され、マレーシア側のクランタン・クダなどとは別の国になった。同じマレー系ムスリムの人々が、この時点で国境線によって分断されたのだ。

なぜマレーシア・インドネシアにないのか

ここで30年以上東南アジアを旅してきた者として、ひとつの観察を挟みたい。

マレーシアでもインドネシアでも、マッサマンに相当する料理を見たことがない。どちらもムスリムが多い国で、マレー系の食文化を持つ。しかし料理の基層はサンバルやビラチャン(エビペースト)の文化—生の唐辛子と発酵調味料を組み合わせるスタイルが主流で、マッサマンのような乾燥スパイスの重層的な使い方とは別の体系だ。

「ムスリムの料理ならマレー系が起源のはず」という論理は、この観察と噛み合わない。

食文化の専門家ではないので断言はできないが、30年の旅の観察とパタニ王国の歴史を重ねると、ひとつの仮説が見えてくる。

マッサマンはマレー系ムスリムの料理がそのままタイに移ったものではなく、複数の要素がアユタヤという場所で再構成されて生まれた料理ではないか。南部マレー系ムスリム(パタニ王国)の牛肉文化とスパイス使用、インド洋交易路を通じて届いたペルシャ・アラブ系の煮込み料理の思想—これらがアユタヤ宮廷の味覚設計と出会って、初めてマッサマンになった。

ここで重要なのがアユタヤという「編集装置」だ。アユタヤは強力な中央集権と宮廷料理文化を持つ国家で、味を「設計」する機能があった。一方マレー半島のスルタン国家群は分散的で、よりローカル志向の料理発展を遂げた。同じマレー系ムスリムの食文化も、アユタヤという編集装置を通過したタイ側ではマッサマンに、通過しなかったマレーシア側ではルンダンやグライになった—そういう分岐ではないか。

マッサマンがマレーシアに存在しないのは、マレー料理の系譜がタイの宮廷で別物に変化した結果だということだ。1909年の国境線がその差を固定した。

これはあくまで旅人の仮説だ。文献的裏付けはない。ただ時代的な辻褄は合う。アユタヤ王朝とパタニ王国が並存していた時期、そしてマッサマンが宮廷詩に登場する18世紀—全て同じ時代の話だ。

スパイスの系譜が示すもの

マッサマンのスパイス構成は、この仮説をさらに補強する。

カルダモン・シナモン・クローブ・ナツメグ—これらはインド洋交易路で流通した乾燥スパイスで、東南アジアのサンバル文化とは無縁だ。アフガニスタンの宮廷料理カブリパラオにはカルダモンとサフランが使われ、モロッコのタジンにはシナモンとクローブが入る。これらはペルシャ・アラブの交易文化圏と接続した料理だ。

マッサマンのスパイスはこれらと同じ系譜にある。シルクロード・インド洋交易路を流通した乾燥スパイスが、アフガニスタンには宮廷ピラフとして、モロッコにはタジン鍋として、そしてアユタヤにはマッサマンとして着地した—そう考えると、タイ料理らしくないという違和感が腑に落ちる。

一方、マッサマンにはレモングラスとガランガルも少量入り、ガティがベースになる。外来のスパイス体系がタイの食材と融合した痕跡だ。アユタヤという交差点で、異なる文化が一皿に収束した。

じゃがいもは後から来た—三つの旅の終着点

マッサマンのじゃがいもについて、見落とされがちな事実がある。

タイ語でじゃがいもは「มันฝรั่ง(マンファラン)」という。「マン」はイモ類の総称、「ฝรั่ง(ファラン)」は西洋人・西洋由来のものを意味する言葉だ。直訳すると「西洋のイモ」になる。

この「ファラン」はペルシャ語経由でタイ語に入った言葉で、もともとはペルシャ語で中世ヨーロッパのフランク人を指す言葉が「西洋人全体」を意味するように拡大したものだ。アユタヤ時代にペルシャ系商人が宮廷に強い影響を持っていたことを考えると、この言語の伝播もまたマッサマンの背景と同じ文脈に属している。グアバもタイ語では「ฝรั่ง(ファラン)」と呼ぶ。外来のものに「ファラン」を付けるタイ語の命名法は、その食材がどこから来たかを名前の中に刻んでいる。

じゃがいも自体は南米アンデス原産で、16世紀にスペイン人がヨーロッパへ持ち込み、コロンブス交換の一部として東南アジアへ拡散した。タイへの導入は17〜19世紀頃と推定されており、初期のマッサマンにじゃがいもがなかった可能性は高い。宮廷料理の完成段階で外来食材が加えられた、ということかもしれない。

ここで改めてマッサマンを眺めると、三つの旅の終着点がひとつの皿に収まっていることがわかる。インド洋を渡ってきたスパイス、イスラム文化圏の煮込みの思想、そして大西洋を越えてアンデスから来たじゃがいも—それぞれ別の海を越えた者たちが、アユタヤという場所で初めて出会った。

マッサマンという名前がムスリムを示し、じゃがいもという食材が西洋を示し、スパイスがインド洋交易路を示す。料理の名前と食材が、そのままこの料理の来歴の地図になっている。

文献なき料理のロマン

起源について断言できることは何もない。18世紀の宮廷詩に登場するという事実以外は、全て状況証拠と推論の積み重ねだ。

ただ、だからこそこの料理は面白い。

文献があれば歴史家が答えを出す。文献がないから、旅人が問い続けられる。バンコクのカオゲン屋でマッサマンを食べながら、この皿がどこから来たのかを想像する余地が残されている。シナモンの香りにペルシャの商船を見て、じゃがいもにアンデスの高地を重ねて、ガティの甘みにアユタヤの厨房を思う。

長きにわたり東南アジアを旅しておきながら、タイ深南部のムスリム圏—パッタニー、ヤラー、ナラティワート、かつてパタニ王国があった土地—ではまだマッサマンを食べていない。マレー系住民が「これはマレー料理の流れをくむ」と言う場所で、実際にどんな味がするのかを知らない。

そこで食べたとき、バンコクで感じてきた「タイにいない感じ」は消えるのか、別の違和感が生まれるのか。

それはまだわからない。でも問いがある限り、旅は続く。

ひとつの皿の中に、インド洋とペルシャ湾とマレー半島とアンデスが交差している。それだけは確かだ。


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