一万七千の島々をどう結ぶか—海が引き裂いた群島を一つの国家に束ね直した五百年

夕暮れのインドネシア群島を上空から俯瞰した風景。穏やかな海に熱帯の島々が点在し、伝統帆船ピニシが島と島の間を航行する。海に引き裂かれながら結ばれる群島国家の地理を象徴する光景。

東南アジアの地図を開くと、その南端に、途方もなく引き延ばされた群島がある。東西の幅は約5100キロ、ロンドンからテヘランまでの距離に匹敵する。南北は約1900キロ。この広大な海域に、確認されているだけで17504の島が散らばっている。このうち有人島は約7000。人口はおよそ2億8000万人。世界第四位の人口大国であり、かつ世界最大の群島国家である。それがインドネシアだ。

この地理こそが、インドネシアの歴史をほぼ規定してきた。海に引き裂かれた国土は、中央集権を極めて難しくする。島ごとに異なる言語・民族・宗教・歴史を持つ人々が暮らしており、その数は300以上の民族集団、700以上の言語に及ぶ。それでも彼らは「インドネシア人」という一つのアイデンティティの下にまとまっている。あるいは、少なくともまとまっていることになっている。

ラオスの地政学を「閉じ込められた地理」と呼ぶなら、インドネシアの地政学は「引き裂かれる地理」である。海は分断し、群島は遠心力を生み、多様性は常に統合の論理を試す。それでもこの国は一つの国家として存在している。シリーズ第二弾としてインドネシアを扱う意味はそこにある。海という障壁を、いかにして「つながり」に転換してきたのか。一万七千の島々を、いかなる論理で一つの「インドネシア」として結び直してきたのか。ラオスとインドネシアを並べて読むとき、地政学という視座が立体的に立ち上がってくるはずである。

海の交易国家—シュリーヴィジャヤとマジャパヒト

インドネシアの歴史は、海から始まる。より正確に言えば、モンスーンから始まる。

インド洋と南シナ海が交わるこの海域では、季節ごとに風向きが変わる。西から東へ、東から西へ。この規則的な風のパターンが、帆船時代の交易を可能にした。中国からインド、中東、さらに地中海まで—ユーラシアを東西に貫く海上交易路の要衝が、マラッカ海峡とジャワ海だった。この地理的条件が、インドネシア諸島に最初の国家を生んだ。

7世紀、スマトラ島南東部のパレンバンに興ったシュリーヴィジャヤ王国は、海の交易国家の原型である。この王国は広大な内陸領土を持ったわけではない。代わりに、マラッカ海峡を通過する交易船から税を徴収し、周辺の港市を従属国として連ねることで繁栄した。7世紀から11世紀まで約400年間、東南アジア海域の覇権を握っていた。中国の唐王朝、南インドのチョーラ朝、アラブ商人—この海域を通るすべての勢力がシュリーヴィジャヤを通過せざるを得なかった。

続く13世紀から16世紀にかけて、ジャワ島東部を拠点とする農業帝国マジャパヒト王国が台頭する。シュリーヴィジャヤが海上交易に特化したのに対し、マジャパヒトは肥沃なジャワの稲作地帯を基盤に持ちながら、海上勢力としても強大化した。最盛期にはスマトラ、ボルネオ、スラウェシ、バリ、そしてマレー半島南部まで影響力を及ぼしたとされる。14世紀の宰相ガジャ・マダは「群島を統一するまで香辛料を口にしない」と誓ったと伝えられる。この誓いに由来する「ヌサンタラ」という言葉は、後に二度、近代インドネシアの歴史の転換点に現れることになる。一度目は20世紀の独立運動期に国家イデオロギーの中核概念として。二度目は21世紀の現在、ボルネオに建設中の新首都の名として。

シュリーヴィジャヤとマジャパヒトに共通するのは、海を障壁ではなく回廊として使う発想である。島々を隔てるものとしてではなく、島々をつなぐものとして海を扱う。この発想が成立するのは、モンスーンと海流が予測可能なパターンを持っていたからである。現代の群島国家インドネシアの地政学的原型は、このとき形成された。

イスラム化とマラッカ王国の興隆

15世紀、インドネシア諸島に新しい要素が加わる。イスラームである。アラブ商人とインド商人を介して、13世紀にはすでにスマトラ北部に最初のイスラム王国サムドラ・パサイが成立していた。しかし本格的な広がりは15世紀以降、マラッカ王国の興隆とともに始まる。

マレー半島南西岸のマラッカは、季節風の切り替わりを待つ船の停泊地として、交易ハブとして急成長した。中国からの朝貢貿易の受益者となり、同時にイスラーム国家として宗教的権威も獲得。マラッカの繁栄は群島全体にイスラームを広げる推進力となった。ジャワ北岸の諸港、モルッカ諸島、ミンダナオ南部まで、交易網に沿ってイスラームが浸透していった。

ただしこのイスラーム化は、他の地域とは異なる特徴を持っていた。征服によってではなく、交易によって広まった。このため、既存の土着信仰やヒンドゥー・仏教の要素を排除せず、層状に重ね合わせる形で定着した。ジャワのイスラームがスーフィズムの影響を強く受け、古いマジャパヒト的な世界観と融合したのは、この経緯の結果である。バリ島がヒンドゥー教のまま残ったのも、単に改宗を免れたというより、マジャパヒトの王族が逃れてきた文化的避難所としての性格を持ったためだった。

結果として、現代インドネシアにはムスリム多数派(約87パーセント)のなかに、カトリック(フローレス)、プロテスタント(北スラウェシ、西パプア)、ヒンドゥー(バリ)、仏教(華人社会)、カハリンガン(カリマンタン内陸)など、地域ごとに異なる宗教的景観が併存している。この多様性は、弱点であると同時に、後の国家統合において一つの資源にもなる。

スパイス・アイランドと西洋列強の到来

16世紀初頭、この海域の地政学を根底から書き換える外部勢力が到来する。ヨーロッパ人である。

彼らを引き寄せたのは、群島東部のモルッカ諸島—別名スパイス・アイランドで産出されるクローブとナツメグだった。ヨーロッパでは肉の保存と薬用、そして富の象徴としてスパイスの需要が爆発的に伸びていた。ヴェネツィアとオスマン帝国が地中海経由の中継貿易で莫大な利益を上げていたため、ヨーロッパ諸国は原産地への直接ルートを探し続けていた。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由のインド航路を開拓し、1511年にポルトガルがマラッカを征服。スペインもフィリピン経由でこの海域に進出した。16世紀のインドネシア諸島は、ポルトガル、スペイン、現地のイスラム諸王国、そしてまだ散発的だが徐々に姿を現しつつあったオランダが角逐する、世界で最も商業的に熱い戦場となった。

決定的だったのは1602年のオランダ東インド会社(VOC)の設立である。VOCは世界初の株式会社であり、国家に準ずる主権的な権限—軍隊保有、条約締結、貨幣鋳造、司法権—を認められていた。会社が国家と同等の機能を持つという発想は、17世紀ヨーロッパの金融革命の産物だった。VOCはこの組織的優位を武器に、ポルトガルから次々と交易拠点を奪取していく。1619年にはジャワ島西部のジャカルタを占領し、バタヴィアと改称してアジア経営の中枢とした。

VOCの戦略は、シュリーヴィジャヤやマジャパヒトが採った古典的な港市ネットワーク型の覇権とは異なる。VOCは特定の商品—特にクローブ、ナツメグ、後にはコーヒー—の生産と流通を独占するために、特定の地域を直接管理下に置き、競合する生産者を物理的に排除した。1621年のバンダ諸島での虐殺は象徴的である。ナツメグの独占供給を確立するため、VOCは島の住民約15000人のうち大半を殺害または奴隷化し、島を完全に新しい植民者と奴隷労働で再構成した。交易の利益を最大化するために、人間の集団そのものを置き換える—これは近世ヨーロッパの植民地主義が新たに発明した統治技術だった。

オランダ領東インドの成立

18世紀末、VOCは破綻する。腐敗、過剰拡張、そして本国オランダを占領したナポレオン戦争の混乱が重なり、1799年に解散。その財産と債務は、オランダ政府に引き継がれた。ここから、企業による交易拠点支配から、国家による領域支配へという重大な転換が始まる。

19世紀を通じて、オランダは群島全域への領域支配を段階的に拡大していった。ジャワは強制栽培制度の下で、コーヒー、砂糖、藍などのプランテーション作物を生産する巨大な農業植民地に作り変えられた。19世紀後半には、これまで独立を保っていた外縁部—アチェ、バリ、南スラウェシ、西パプアなど—も次々と制圧されていく。特にスマトラ北端のアチェ王国に対する戦争(1873-1904)は、ゲリラ戦を含む泥沼の消耗戦となり、オランダ側だけで2万人以上、アチェ側で推定10万人以上の死者を出した。

20世紀初頭までに、現在のインドネシア国家の領土にほぼ相当する範囲が「オランダ領東インド」として一つの行政単位に統合された。しかしこの統合は、それまでまったく別個に存在していた多様な社会—アチェのイスラーム王国、ジャワの旧マジャパヒト的秩序、バリのヒンドゥー王国、モルッカのクリスチャン共同体、パプアの部族社会—を、外部から一つの行政枠組みに押し込めたものだった。この枠組みこそが、後のインドネシアという国家の国境を規定することになる。

別の言い方をすれば、現在のインドネシアの国境線は、この群島に住む人々の歴史的なまとまりを反映したものではなく、オランダが支配の効率性のために引いた線である。西のマレー半島がイギリス領になり、東のニューギニア島半分がオーストラリア委任統治領になり、南のティモール東半分がポルトガル領になったのは、すべて19世紀の列強間の地政学的取り決めの結果だった。独立後のインドネシアは、このオランダが引いた線を「ヌサンタラ」というイデオロギーで読み替え、一つの国民国家として再定義することになる。

ナショナリズムの胎動と独立

オランダの植民地支配は、逆説的に、インドネシア・ナショナリズムを可能にする条件を整えた。

一つは、共通言語の形成である。オランダ領東インドの行政・商業の実務言語として、マレー半島やスマトラ東岸で使われていたマレー語を基にした一種の共通語が群島全域に普及した。これが後のインドネシア語の母体になる。もう一つは、20世紀初頭の「倫理政策」と呼ばれる植民地政策の転換による、限定的だが着実な現地人エリート層の教育である。オランダ語で教育を受け、西洋近代思想に触れ、そして母国がいかに搾取されているかを理解した若い知識人層が、1900年代から1920年代にかけて形成されていった。

1928年10月28日、ジャカルタで開かれた第二回青年会議で、「青年の誓い」が発表される。「一つの祖国、一つの国民、一つの言語—インドネシア」。これが近代インドネシア・ナショナリズムの出発点とされる。注目すべきは、この誓いが「インドネシア人」というアイデンティティを既存の事実ではなく、これから作るべき事実として宣言していることである。ジャワ人でもスンダ人でもバタク人でもアンボン人でもなく、「インドネシア人」である。多様性を否定するのではなく、それを包摂する上位のカテゴリーとして「インドネシア人」が発明された。

独立運動の中心人物となったのは、スカルノである。ジャワ人技師の家に生まれ、バンドン工科大学で学んだこの青年は、インドネシア民族主義、イスラーム、マルクス主義を独自に総合する政治思想家だった。彼は多様な群島を一つの国家として統合するための原理として、1945年に「パンチャシラ」(五原則)を提示する。神への信仰、人道主義、インドネシアの統一、民主主義、社会正義。特定の宗教を国教とせず、かつ神の存在を前提とすることで、多数派イスラームと少数派諸宗教の双方を包摂する—この微妙なバランスは、今日まで続くインドネシア国家の基礎となっている。

1942年、日本軍がオランダ領東インドを電撃的に制圧する。わずか数ヶ月でオランダ植民地は崩壊し、以後三年半、この群島は日本の軍政下に置かれた。日本軍政は過酷だったが、同時にインドネシア独立運動にとっては決定的な転機となった。オランダが支配していたあらゆる行政ポストに現地人が登用され、軍事訓練を受けた独立派の青年部隊が組織された。スカルノもハッタも、日本軍政に協力する形で政治的影響力を拡大した。1945年8月15日に日本が降伏すると、二日後の8月17日、スカルノは独立を宣言する。

しかしオランダはこの独立を認めず、再植民地化を試みた。以後四年間の独立戦争を経て、1949年12月、国際的圧力の下でオランダはついに主権を委譲する。独立したインドネシアは、オランダ領東インドの境界線をほぼそのまま引き継いだ。ただし西パプアだけは例外で、1963年までオランダの統治が続き、その後インドネシアに編入された。こうしてスマトラ北端からパプア西端まで、東西5100キロに及ぶ群島国家が正式に成立した。

パンチャシラと9・30事件—統合の危機

独立後のインドネシアが直面したのは、この広大な群島を実際にいかに統治するか、という問題だった。外部から押し付けられた境界を、内在的な統合原理でどう読み替えるか。スカルノの答えは、ジャワを中心とするナショナリズム、反植民地主義、そして多様性の儀礼的包摂という三本柱だった。しかしこの枠組みは、1950年代後半から激しい軋みを立て始める。

外縁部—スマトラ、スラウェシ、モルッカ—では、中央集権的な国家運営とジャワ中心主義に対する反発が相次いだ。1950年のモルッカ共和国独立宣言、1957年のスマトラとスラウェシにおける地方政府の中央離反、1958年のPRRI・ペルメスタ反乱。これらはいずれも軍事的に鎮圧されたが、群島の遠心力がいかに強いかを露呈した。

冷戦もこの国を直撃した。スカルノは非同盟の旗手として1955年にバンドン会議を主宰し、第三世界の指導者として国際的な存在感を高めた。国内政治では、インドネシア国民党、イスラーム諸政党、そしてインドネシア共産党(PKI)のバランスの上に成り立つ「指導される民主主義」体制を確立。PKIは東南アジア最大、世界でも中国・ソ連に次ぐ規模の共産党に成長していた。アメリカは深い警戒感を抱き、スカルノ政権の転覆を画策していた。

1965年9月30日深夜から10月1日未明、ジャカルタで陸軍将官グループがPKI系の一部軍人によって殺害される事件が起きる。いわゆる9・30事件である。この事件の真相は今日まで完全には解明されていないが、その後の展開は明確だった。スハルトを中心とする軍部は、事件をPKIによるクーデター未遂と断定し、全国的なPKI弾圧キャンペーンを発動する。以後約六ヶ月にわたり、PKI党員、シンパ、そしてしばしば単に疑われただけの人々に対する大量殺戮が行われた。

死者の推計は研究者によって幅がある。最も控えめな推計で50万人、多い推計では200万から300万人。犠牲者の大半はジャワとバリの農村部で、共同体の隣人同士が殺し合う事態が広範囲で発生した。特にバリでは、人口比で最も激しい殺戮が起きたとされる。この事件は、後年の真相究明を拒み続ける国家的タブーとして、現代インドネシア社会の底に沈殿し続けている。

1966年3月、スハルトはスカルノから事実上の全権を委譲させ、1967年に正式に大統領代行、1968年に大統領に就任する。新体制(Orde Baru)の時代が始まった。

新秩序体制—開発独裁と統合の技術

スハルトの新体制(1967-1998)は、インドネシアの統合問題に対する一つの答えだった。強権的な中央集権、軍による治安維持、そしてテクノクラートによる経済開発。これを支えたのは、豊富な石油収入と西側諸国からの援助、そしてパンチャシラを国家イデオロギーとして絶対化する政治文化だった。

スハルトの統治技術の核心は、「多様性を認めつつ統合を強制する」という矛盾した方針の両立にあった。各地の伝統文化は観光資源として保護された。タマン・ミニ・インドネシア・インダ(ジャカルタの「美しいインドネシアのミニチュア公園」)はこの発想の典型で、各州の伝統家屋を一か所に集めて展示する。多様性は表象化され、管理された形で公的に認められる。しかし同時に、この多様性が政治的分断になることは絶対に許されない。PKIだけでなく、イスラーム急進派、地方分離主義、民主化運動—いかなる統合への挑戦も徹底的に封じ込められた。

外縁部に対する統合政策はより直接的だった。東ティモールは1975年のポルトガル撤退の混乱に乗じて侵攻・併合され、以後24年間、激しい抵抗運動と人口の三割を失うほどの大量犠牲を伴う占領統治が続いた。アチェは独立運動(GAM)との長期内戦、パプアでは低強度の治安作戦が継続した。スマトラ、カリマンタン、スラウェシへのジャワ農民の大規模移住政策(トランスミグラシ)も、統合の技術の一つだった。人口過密のジャワから外縁島嶼部へ国家が組織的に人を動かすことで、国家の物理的存在を群島全域に浸透させる。意図されたものもあれば副作用だったものもあるが、この政策は外縁部の民族構成を不可逆的に変え、後の民族紛争の遠因ともなった。

1997年のアジア通貨危機は、この開発独裁体制の持続不可能性を一挙に露呈させた。通貨ルピアは暴落し、インフレは制御不能となり、失業が爆発した。大都市で暴動が連鎖し、華人系住民への襲撃が大規模に発生した。1998年5月、ジャカルタでの大規模暴動と学生運動の高まりを受けて、スハルトは32年間保持してきた大統領職を辞任する。新体制は崩壊した。

レフォルマシ—分権化と民主化

スハルト退陣以降の時代を、インドネシアでは「レフォルマシ」(改革)と呼ぶ。この時期に進行したのは、インドネシアという国家の統合論理そのものの書き換えだった。

最も重要な変化は、徹底した地方分権化である。スハルト時代の極端な中央集権の反動として、1999年以降、州・県・市レベルに大幅な自治権と財政権限が委譲された。州知事、県知事、市長は直接選挙で選ばれるようになった。これは、国土の多様性をもはや「統合への脅威」として扱わず、「自治の単位」として制度化する転換だった。

外縁部への対応も変化した。アチェは2004年のスマトラ沖地震・津波という未曾有の災害を契機に、2005年の和平合意により広範な自治権を獲得し、イスラーム法(シャリーア)に基づく地方法制が認められた。パプアも「特別自治」のステータスを与えられた。ただしパプアでは中央政府との緊張は今日まで続いており、散発的な衝突が繰り返されている。東ティモールについては、1999年の住民投票で独立が選択され、2002年に正式に分離独立した。

もう一つの大きな変化は、政治的イスラームの再浮上である。スハルト時代に徹底して抑え込まれていたイスラーム政治勢力が、民主化とともに表舞台に戻ってきた。ただしインドネシアのイスラーム政治は、中東諸国のような単一の強力なイスラーム政党にはならず、温和な伝統派(NU)、近代主義派(ムハマディヤ)、原理主義的な諸勢力の間で競合し続けている。この分散構造自体が、インドネシアのイスラーム政治を相対的に穏健に保ってきたともいえる。

経済的には、ジョコ・ウィドド政権(2014-2024)下で大規模なインフラ投資が進んだ。中国のシルクロード構想(一帯一路)に呼応する形でジャカルタ・バンドン間の高速鉄道(2023年開業)が建設され、ニッケル鉱石の輸出禁止と国内製錬義務化を通じてEV電池供給網の上流を押さえる戦略が採られた。しかし同時に、中国への経済的依存が深化するという別の地政学的ジレンマも生まれている。

群島国家の現在地—プラボウォ政権と多方位外交

2024年10月、プラボウォ・スビアントが第八代大統領に就任した。スハルトの娘婿であり、元特殊部隊司令官として人権侵害の疑惑を抱える人物でもある。その就任は、スハルト期の政治的系譜が民主化時代を経て再び中枢に戻ったことを意味した。

プラボウォ政権の外交姿勢は、伝統的な「非同盟」から「多方位アラインメント(multi-alignment)」への転換として特徴づけられている。中国とアメリカの双方との関係を積極的に強化するこのアプローチは、「真に非ブロックでありたいなら、すべての人と友達でありたいなら、我々は孤立する。脅かされたり攻撃されたりしたら、誰も助けてくれない」というプラボウォ自身の言葉に集約される。2025年にはBRICSへの加盟を実現し、同時にアメリカとの防衛協力パートナーシップ(MDCP)も締結。ロシアへも複数回訪問し、オイル供給を確保。日本・韓国とはエネルギー安全保障で連携する。

この多方位外交は、インドネシアの地政学的立ち位置を反映している。南シナ海では中国と、ナトゥナ諸島周辺の漁業権をめぐって断続的な緊張がある。一方で、中国はインドネシアにとって最大の貿易相手国であり、最大のインフラ投資家でもある。アメリカとの関係では、トランプ政権による32パーセントの対インドネシア関税に直面し、重要鉱物へのアクセスと引き換えに譲歩を迫られた。シンガポールとの関係、マレーシアとの対立と和解、オーストラリアとの微妙な関係—周辺のすべての主要プレイヤーとの関係を、単線的にではなく多線的に管理する必要がある。

経済では、プラボウォ政権は「ダナンタラ」(Danantara)と呼ばれる巨大なソブリン・ウェルス・ファンドを設立し、国有企業の資産を統合して戦略的投資に振り向ける体制を構築した。同時に、無償栄養食プログラム(Makan Bergizi Gratis、MBG)という大規模社会政策を推進している。プラボウォ自身が2026年のダボス会議で述べたように、このプログラムは2026年末までに8290万人を対象とすることを目指し、供給網には6万以上の零細・中小企業が参加し、60万以上の雇用を創出しているとされる。これは単なる福祉政策ではなく、広大な群島全域に国家の物理的存在を浸透させる一種の統合技術でもある。食という最も基礎的なものを通じて、国家と国民の距離を縮める試みである。

ただし課題も明確である。2026年国家予算は2024年比で地方交付金を約三分の一削減し、財政の再中央集権化を進めている。レフォルマシ期に確立された分権化の原則が、プラボウォ政権下で逆行しつつある。軍の政治的・社会的役割の拡大、民主主義的制度の形骸化への懸念、構造的な若年失業と実質賃金停滞—インドネシアの統合は今、新しい試練にさらされている。

ヌサンタラ—新首都が示す国家の再設計

プラボウォ政権が引き継いだプロジェクトのなかで、最も象徴的なのはボルネオ島(カリマンタン)に建設中の新首都ヌサンタラである。

ジャカルタは世界最大の都市圏の一つだが、同時に世界で最も速く沈みつつある都市でもある。地下水の過剰汲み上げと海面上昇により、北部は既に海面より低く、毎年数センチのペースで沈下を続けている。人口3000万の首都圏は交通と大気汚染で機能不全寸前にある。この構造的問題を解決するため、ジョコ・ウィドド政権は2019年に首都移転を決定した。総事業費約35000億円(523兆ルピア)、2045年の独立100周年までに五段階で完成させる計画である。

新首都「ヌサンタラ」という名前自体が、強烈な地政学的メッセージを発している。マジャパヒトの宰相ガジャ・マダの誓いに由来し、「群島」を意味するこの言葉は、独立運動期には国家統合のイデオロギーとして再発明され、そして今、地理的にも新首都として体現される。ジャワ中心主義からの離脱、群島全体を象徴する地理的中央への重心移動、「ワワサン・ヌサンタラ」(群島の視座)という国家地政学構想の物理的具現化—これらすべてが、ボルネオ島東岸の一地点に集約されている。

しかし2026年時点で、新首都の中核エリアの人口は約1万人にとどまり、計画されている120万人の目標から程遠い。2026年のヌサンタラ関連予算は前年から半減し、プラボウォ自身が就任から1年以上経った2026年1月にようやく初の現地訪問を行ったという状況は、このプロジェクトの政治的モメンタムが揺らいでいることを示唆している。核となる政府機能の移転は2028年を目標とし、年内には追加で4100人の公務員を移住させる計画が進んでいるが、一方で既存のバリクパパン湾周辺のマングローブ生態系の破壊、バリク族など先住民コミュニティへの影響、環境保護団体からの批判も続いている。

ヌサンタラは、インドネシアという国家の五百年にわたる統合の試みの、最新の章である。マジャパヒトの海上帝国、オランダの植民地行政、スカルノのパンチャシラ、スハルトのトランスミグラシ、レフォルマシの分権化、ジョコ・ウィドドのインフラ整備、そしてプラボウォのダナンタラとMBG—これらすべてが、広大な群島を一つの国家として束ねるための異なる戦略だった。ヌサンタラは、この系譜の次の試みである。成功するかどうかは、まだ分からない。

海が引き裂き、海が結ぶ

インドネシアの歴史を通観すると、一つの命題が浮かび上がる。地理は運命ではないが、地理は選択肢の幅を決める、という命題である。ラオスの歴史から見えたのと同じ命題だが、インドネシアの場合、その現れ方が正反対である。

一万七千の島々、東西5100キロに広がる国土、300以上の民族、700以上の言語—これらの条件は変えられない。変えられるのは、この条件の下でどのような統合戦略を取るかだけである。シュリーヴィジャヤの港市ネットワーク、マジャパヒトの海上帝国、オランダの中央集権的植民地支配、スカルノのパンチャシラ、スハルトの開発独裁、レフォルマシの分権化、現在の多方位外交とヌサンタラ計画。いずれも、この地理的条件に対する異なる応答だった。

海は引き裂くものである。同時に、海は結ぶものでもある。モンスーンに乗って島から島へ渡る船、港市を通じて流通するスパイス、海路を伝って広がるイスラーム、植民地時代の定期船航路、そして現代の航空路線とデータ通信網—インドネシアの歴史は、海を障壁から回廊へと転換し続ける試みの連続だった。

ラオスが「閉じ込められた地理」への応答として陸の交差点化を模索しているとするなら、インドネシアは「引き裂かれる地理」への応答として海の回廊化を模索し続けている。どちらの国も、自国では変えられない地理的条件の制約の下で、可能な戦略の幅を探っている。地政学を学ぶとは、この制約と戦略の関係を冷静に見極めることでもある。

世界第四位の人口、世界最大のムスリム人口、世界最大の群島国家、ASEANの最大国、G20唯一の東南アジア加盟国、ニッケル埋蔵量世界一—インドネシアは様々な「最大級」を抱える国である。しかしその統合は常に試練にさらされている。海に隔てられた島々を、どのような論理で一つの「インドネシア」として結び直し続けるのか。この問いに対する答えは、21世紀のアジアの、そして世界の地政学にとって、小さくない意味を持つ。

次回取り上げるのは、インドネシアとラオスの中間の地理条件を持つ国—カンボジアである。内陸国ではないが海への出口が狭く、群島ではないが国土の大半が平原で容易に通り抜けられる。強大な隣国タイとベトナムに挟まれ、北には中国、歴史的にはシャム・ベトナム・仏領・米越戦争の余波・ポル・ポト政権という連続する衝撃を受けてきた「回廊国家」。ラオスの閉じ込められた地理、インドネシアの引き裂かれる地理、そしてカンボジアの通り抜けられる地理—この三つを並べて読むことで、東南アジア大陸部と島嶼部の地政学の基本形がさらに鮮明になるはずである。


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