カオサンを探していたら、最初から泊まっていた — 1990年1月、初海外の11日間

1990年代のバンコク。夕方王宮近くの屋台でイサーン料理を食べる

1990年1月26日、私は初めて海外に出た。

目的地はオークランドだった。ニュージーランドでワーキングホリデーをするために、バイク便で金を貯めた。会社の社長は本業が旅行代理店で、格安航空券が出始めた頃だった。個人向けの小さな代理店がいくつもあった時代だ。社長にオークランド行きのチケットを頼んだら、ユナイテッド航空でバンコクまで飛び、そこからブリティッシュ・エアウェイズでオークランドへというルートが出てきた。社長が気を利かせてバンコクの最初のホテルも予約してくれた。

タイには、特に興味がなかった。

当時の私が憧れていたのはサンゴ礁の海だった。1986年から4年連続で夏は西表島に通い、ダイビングのライセンスも西表島で取った。オークランドへ行くのも、南太平洋でアイランドホッピングをするためだった。バンコクは単なる通過点のはずだった。ホテルの名前はビエンタイ。バンコクのどのあたりにあるのか、まったく知らなかった。

ドンムアン空港、最初の洗礼

ドンムアン空港に降り立ったのは夕方だった。

『地球の歩き方』にはバスで市内へ行けると書いてあった。バス停を探して歩き回ったが見つからなかった。うろうろしている間に、客引きに捕まり気づけばタクシーに乗せられていた。客引きが「チップ、チップ」と言った。意味がわからなかった。コインを出したら「No」と言われた。紙幣を出したら100バーツだった。それをむしり取られた。

タクシーはボロボロの日本車でエアコンはなかった。窓を開けるとモワーっとする熱気が車内に入ってきた。夕方のバンコクは渋滞していた。ホテルがどこなのかもわからない。行き先が正しいのかもわからない。窓の外に、見たことのない街が流れていった。

とんでもないところに来た、と思った。

1990年代のバンコク。夜の渋滞。交渉制のタクシーでドンムアン空港から市内へ向かう

ビエンタイホテル、ドラえもんの夜

何とかビエンタイホテルに着いた。部屋に入り、テレビをつけた。ドラえもんをやっていた。のびたのお母さんが「カァ、カァ」と言っていた。それしかわからなかった。でも、その気の抜けたような音は、不思議ときれいな響きだと思った。張り詰めていたものが、少し緩んだ。

翌朝、カオサンに行こうと思った。

バックパッカーの間でバンコクといえばカオサンだということは、出発前に読んで知っていた。ビエンタイを出て、地図を手に歩き始めた。英語が話せないから人に聞くこともできない。路地を曲がり、また曲がった。

カオサン・ロードという看板が目に入ったのは、ホテルの裏手に出たときだった。

そういうことか、と思った。社長が手配してくれたホテルは、最初からカオサンのすぐ裏にあった。初日の夜、私はカオサンを知らないまま、カオサンで眠っていた。

60バーツのゲストハウス、そしてカメラが消えた

安いゲストハウスに移ることにした。チェックインの際、英語で何と言えばいいかわからず、持参した電子手帳をもたもた開いていると、受付のスタッフが無言で紙に「60」と書いた。シングル60バーツ、扇風機、シャワーは共同。それで十分だった。

荷物を置いて、シャワーを浴びに行った。戻ると、バックパックのファスナーが開いていた。コンパクトカメラがなかった。部屋の鍵はかけていたが、何故かドアが開いていた。英語が話せないので、フロントに言いに行くこともできなかった。部屋に戻って、しばらく天井を見ていた。

カオサンの夜は騒がしかった。どこかでビールを飲んでいる旅人たちの声が聞こえた。みんなが猛者に見えた。この場所に慣れた、東南アジアを知っている人間たちに自分はひるんでしまった。

プーケット、目指していた海ではなかった

ニュージーランドまでのフライトまでは少し日にちがあった。事前にガイドブックで調べたらプーケットの海がきれいそうだった。社長から何かあったらビエンタイホテル1階の旅行代理店に行くように言われていた。バンコクからニュージーランドへのフライトは、ここの旅行代理店で発券されていた。旅行代理店に行き「Phuket bus…」といった。何やら英語で言われたが、全く理解できなかった。「Airplane 1,650B」と書かれた紙きれを渡された。結局、飛行機のチケットを買った。ドンムアンにどうやって行ったかは覚えていない。

プーケットの空港からトゥクトゥクに乗った。おそらくぼられた。パトンのバンガローはシングル180バーツ。翌日、バイクを借りてプーケットを一周した。言葉はできなかったが、バイク便をやっていたせいかバイクには妙な自信があった。翌日はダイビング。ガイドとマンツーマンだったが、会話はほとんど成立しなかった。わかったのは「日本人の女性はピンクが好きだよね」という一言くらいだった。ピピ島で食べたお弁当は辛かった。

海はきれいだった。しかし、満足はできなかった。西表島で慣れた目には、プーケットの海の色はまだ物足りなかった。私が目指していたのは、もっと南の海だった。

夜行バスでバンコクへ、オレンジ色のバス

バンコクへは夜行バスで戻った。エアコンつきのツアーバスと呼ばれるバスだった。途中、休憩があって食事をした。勝手がわからず、バスお降りる時、同乗していた人の顔を覚えてこっそりついて行った。深夜の国道を走っていると、オレンジ色のバス路肩に停車していた。エアコンなし、2列と3列のシート配列、窓が全開で中は満員だった。屋根には荷物が積み上げられ、市場で使うような籠も見えた。乗客はみんな疲れ切った顔をしていた。バンコクへ出稼ぎに向かうのだろうか、とぼんやり思いながら見送った。

明け方近く、目を覚まし、窓の外見るとゾウが歩いていた。国道を、ゆっくりと。まだそういう時代だった。

エクスキューズミー、パイナップルジュース

カオサンに戻り、何泊かした。屋台の食べ方がわからなかったので、毎食ツーリスト向けのレストランに入った。無言で入り、メニューを見て、指さしで注文した。「Prawn」が海老だとも知らなかった。店員を呼ぶときに何と言えばいいかもわからなかった。隣のテーブルの外国人が「Excuse me, pineapple juice please」と言っているのを聞いて、まねて超日本語で「エクスキューズミー、パイナップルジュース」と言ってみた。通じた。

夕暮れの屋台、イサーンから来た女の子

ある日の夕方、食事に出ようとすると、ゲストハウスの受付の女の子に声をかけられた。身ぶり手ぶりで食事に行くと伝えると、彼女は「Let’s go together」と言った。

王宮の近くまで歩いた。空はまだ明るかった。屋台に座ると彼女が注文した。覚えているのはカオニャオ、ソムタム、コームーヤーン。ソムタムはタムプーパラーだったと思う。ただただ辛かった。コーラをすぐになくなり、水をひたすら飲んだ。コームーヤーンは何か今まで食べた事無いようなスパイスの味だったが美味しかった。

彼女はゆっくりと英語で話しかけてくれたが、会話はほとんど続かなかった。彼女の名前は「ウワン」だという。出身地を言ってくれたが聞き取れなかった。「イサーン、イサーン」とだけ聞き取れた。当時、イサーンがどこなのかもわからなかった、村の名前かと思っていた。自分の英語力の無さが悲しかった。彼女に「どこへ行くの?チェンマイ?プーケット?」と聞かれ、「Bangkok, Phuket, Bangkok, New Zealand」と答えた。彼女は終始ニコニコしていた。

食べ終わって、財布を出そうとした。彼女が首を振った。「あなたはまだ旅を続けるから、私が払う」と言った。イサーンから出てきて、ゲストハウスに住み込みで働いている女の子が、見知らぬ日本人旅行者の夕飯を全部払ってくれた。

何も言えなかった。英語が話せなかったから、という理由だけではなかった。

あの11日間がなければ

翌日、私はドンムアンからニュージーランド行きの飛行機に乗った。バンコク11日間。カメラを盗まれ、ぼられ、言葉も通じず、屋台にも入れなかった。カオサンでは猛者たちに圧倒され続けた。

ニュージーランドで宿で、東南アジアを旅してきたという日本人によく出会った。「ニュージーランドって、タイに比べると刺激がないよな」と言う人間が何人かいた。そのたびに、どこか負けたような気がした。打ちのめされた、という方が正確かもしれない。タイで何もできなかった自分への、言いようのない引け目だった。王宮の近くの屋台で食事をしてくれた女の子のことは、いつも頭の片隅にあった。

ワーホリが終わって帰国したのは1991年2月。日常会話ぐらいの英語もマスターした。それから、私は東南アジアに戻った。南太平洋への熱は少しづつ冷めていった。そして徹底的に攻めた。タイのスタンプは数えきれない。カンボジアは何度行ったかわからない。ラオスも片手では足りない。気づけばタイ語は何とかなり、ラオス語、クメール語、インドネシア語は片言になった。どこかで聞こえてくる言葉が、意味はわからなくても、どの国の言葉かは耳でわかる。文字を見れば、どこの国かわかる。

カオサンで猛者に見えた人たちも、最初はそうだったのだと思う。「Prawn」が海老だと知らなかった人間が、いつの間にかそうなっていた。あの11日間がなければ、そのどれも起きなかった。

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