
フランス語かロシア語、話せますか?—1995年、ハノイで入院した話
ホーチミンから北へ
旅先でカメラを向けるのは、ずっと風景だった。
1992年のインドネシアの旅。スマトラのトバ湖、ロスメンの部屋で考えた。『何で旅をしているのか?』
カオサンの宿、王宮前で食事をおごってくれたイサーンの女の子。バスで隣になったおじさん。名前も知らない人たちの顔が、風景より鮮明に残っている。
それからはテーマを変えた。出会った人のポートレートを撮る。記念写真を一緒に撮る。トバ湖以降の旅は充実したものになった。
1995年、就航したばかりのJALの関空〜ホーチミン線のチケットが当たった。ベトナムには以前から興味があったが、少し敷居が高かった。チケットが当たらなかったら行かなかったかもしれない。
4月9日、関西空港からホーチミンに飛んだ。カメラ2台、1台にはポジフィルムをもう一台にはネガフィルムを装填した。テーマは「ベトナムで出会った人を撮りまくる」。南から北へで縦断する計画だった。
ニャチャンまではシンカフェのツアーバスに乗った。ツアーデスクで申し込めば、あとはバスが北へ運んでくれる。ホーチミン~ハノイまでのオープンツアーチケットはバックパッカーの定番だった。
ニャチャンからはローカルバスに切り替えた。
当時のベトナムでは、外国人がバスターミナルで切符を買うと3倍の料金を取られた。切符が3枚切られるのだ。合法的なぼったくりである。
そこで、まずバスターミナルに行ってベトナム人料金を確認する。それからバイタクで国道1号線に出て、北に向かうバスを道端で捕まえる。乗り込んで値段交渉。決裂したら降りる。次のバスを待つ。また乗る。また交渉する。
ベトナム語は「バオニュウ?(いくら?)」と、数字だけ覚えた。それで1ヶ月戦った。
喉の違和感
フエを過ぎ、ヴィンに着いた。
二度の戦争で徹底的に破壊され、東ドイツの援助でソ連式コンクリートブロックの街に再建された場所だ。地味だった。見どころは特にない。ホーチミンの生家が近くにあるらしいが、寄る気力もなかった。
ヴィンを出るとき、喉に違和感があった。
1ヶ月、窓全開のローカルバスで砂埃を浴び続けている。毎日「バオニュウ?」と声を張って交渉している。体が限界に近づいていた。でも、ハノイはもうすぐだった。
ここ大丈夫かな
ハノイに着いて、熱が出た。
喉が腫れ上がって、声が出ない。宿で寝ていても悪化する一方で、これは病院に行くしかないと観念した。
病院に着いた。なんか大きい総合病院だな、くらいの印象だった。古い建物、古い設備。「ここ大丈夫かな」。不安しかない。
受付で言った。
「I have fever.」
ニュージーランドのワーホリで英語はそれなりに使えるようになっていた。しかし、通じなかった。受付でも通じなかった。
困っていると、一人の女医さんが出てきた。
—ベトナムで、女医さん?
朦朧とした頭の中で、少し驚いた。1995年の日本でも女医さんはまだ珍しい時代だった。それがベトナムで、熱で倒れ込んだ先で会ったのが女性の医師—熱で霞む視界の中で、心のどこかでカメラマンの目が動いた気がする。
その先生が、片言の英語で聞いてきた。
「フランセ? ロシア? 話せる?」
フランス語かロシア語、話せますか—
朦朧とした頭の中で、なんとなく理解した。ここは仏領インドシナだった場所だ。そして北ベトナム。共産主義。旧ソ連側。だからフランス語とロシア語なのだ。
英語は、たぶん通じない。
どちらも話せない。
身振りと片言の英語で、なんとか「熱がある」「喉が痛い」を伝えた。伝わったのかどうか、正直よくわからない。
即入院と言われた。

ソ連時代の遺物
入院手続きの後、すぐに血液検査とレントゲンに回された。
たぶん咽頭炎なのだが、問診がまともにできないから、画像で確認できるものは全部確認する方針だったのだろう。結核を疑われたのかもしれない。当時のベトナムは罹患率が高かった。
問題はレントゲンの機械だった。
見るからに旧式で、ソ連時代の遺物のような外観をしていた。撮影中、一つのことだけ考えていた。
これ、線量強くないか—
血液検査の方も、抜針のあとアルコールの脱脂綿を当てただけで、テープも貼ってくれなかった。日本の病院と比べるものになるまい。病室もなぜか、らい病棟のような雰囲気だった。
病棟の珍事
部屋に案内されて、ベッドに倒れ込んだ。唸っていると、白衣が入れ替わり立ち替わりやってくる。担当医の先生ではない、ほかの人たちだ。
「ロシア語、話せる?」
「フランセ?」
同じ質問を、違う人が何度も聞きに来る。病棟中で「外国人が入院してきた」と話題になっているらしい。1995年のハノイの公立病院に、日本人バックパッカーが一人で飛び込んでくるのは、おそらく珍事だったのだろう。
それどころじゃない。熱で朦朧としている。
その日は祝日だった
翌日、先生が来なかった。
廊下を歩く音もまばらで、病棟が妙に静かだ。あとから分かったが、その日は4月30日—南部解放記念日だった。
1975年4月30日、北ベトナムの戦車がサイゴンの大統領官邸に突入し、ベトナム戦争が終わった。1995年のその日は、そこからちょうど20年目の節目だった。
フランス語とロシア語の病院で、戦後20年の祝日の静けさの中で、熱を出して寝ていた。
先生が首を傾げる
最初の処方が合わなかった。
薬を飲んでも熱が下がらない。先生が毎日部屋に来てくれるのだが、首を傾げている。言葉が通じないから、症状の変化を細かく伝えられない。喉のどこが痛いのか、いつから悪化したのか、他に症状はあるのか。全部が曖昧なまま、先生は手探りで治療を続けていた。
処方が変わった。今度は効いた。
3日目あたりから、嘘のように楽になった。

竹のザルの青菜
入院食が美味かった。
竹のザルに青菜が盛られて、肉料理が皿に並ぶ。ベトナムの病院食は家庭料理の延長で、街の食堂と変わらない味がした。1ヶ月ローカルバスで北上してきて、毎日値段交渉と砂埃にまみれていた身体に、温かい飯が染みた。
ある晩、食堂のおばさんが病室に来た。片言で話した。
おばさんにも息子がいて、腎臓を患っているらしい、と。明日、注射をすることになっているんだと。
なぜかおばさんは、見知らぬ日本人の入院患者にココアとコンデンスミルクの缶をくれた。「これはスープだよ」と言って。ペプシを一本つけて。
3〜4日で退院した。
127ドル
退院の朝、「退院したい」と伝えた。容体が落ち着いたし、旅も続けたいから。
担当医が休みだからダメだ、と言われた。でももう元気なので、と押し切ったら、しぶしぶOKが出た。ただし、診断書とレシートは担当医でないと書けないから、明日また来てください—。
翌日、診断書を取りに行った。
病室代1日20ドル、食事代5ドル。3日で$75のはず。退院時には75ドル払っている。でも、窓口で「足りません」と言われた。最終的な請求は127ドルだった。
自分でもおかしいと思いながら払った。20代のバックパッカーには内訳がよく分からなかった。でも今になって思う。病室代と食事代で$75、残りの$52は診療代だったのだろう。血液検査をして、レントゲンを撮って、毎日先生が様子を見て、処方を変えて—そういうことに対する対価。入院費とは別に診療代がかかることすら、当時はピンときていなかった。
$127は当時のレートで、およそ140万ドン。
1995年のハノイで、路上のフォーは1杯2,500ドン。食堂で一皿飯(コムディア)が4,000ドン。ドミトリーなら一泊5,000ドン、そこそこのホテルでも一泊$8。このベトナム縦断の旅、自分の平均支出は1日$5から$10の間だった。食事、宿、移動、全部含めて。
つまり$127は、このペースで旅をして2週間分に相当する金額だった。
そして、ベトナム人の視点で見るとどうか。当時のベトナム人の月収は、職種にもよるが、1ヶ月の収入を超えた可能性が高い。外国人料金だった、ということなのかもしれない。
$127という数字だけは、今でも妙に覚えている。
息子がロシアに留学している
診断書を受け取ったあと、カメラを出した。
トバ湖で決めたテーマは「出会った人を撮る」だった。治してもらった人たちを撮らせてもらわずに帰る選択肢はなかった。
先生を撮らせてもらった。カルテを広げた机の前で、穏やかな表情をしていた。窓の外にはハノイの街が見えた。古い窓枠、黄色い壁。当時はただの古い病院だと思っていた。
撮影中、ぽつぽつと話した。言葉はやはりほとんど通じなかったけれど、熱が下がった今はそれなりに会話らしい会話になった。
先生は、片言の英語で教えてくれた。息子がロシアに留学している、と。
朦朧としていた頭はもうクリアだったけれど、それでも心の中でこう思った。
「いや、今更ロシアなんて」
1991年にソ連は崩壊していた。それから4年。米越国交正常化はこの年の7月—入院した時点で、アメリカはまだベトナムと国交を持っていなかった。英語の時代はまだ来ていない。かといって、ロシアも、もうあの頃の大国ではない。ハイパーインフレとチェチェン紛争で荒れている真っ最中だった。
でも、目の前の先生の息子さんは、今まさにロシアで勉強している世代だった。もしかしたら、先生自身もかつてソ連で学んだのかもしれない。最初に「フランス語かロシア語、話せますか?」と聞いたのは、彼女自身の経歴が滲んでいたのかもしれない。
北ベトナムの医療エリートには、そういう人が少なくなかった時代だ。
食堂のおばさんも撮らせてもらった。竹のザルに青菜を盛って、笑っていた。あの入院食を作ってくれた人だった。
ポジフィルムに、2人の笑顔を収めた。
退院の二日後
退院の二日後、ハロン湾へ向かうバスに乗っていた。
我ながら、病み上がりとは思えない身軽さだった。その後ラオカイからサパに上がり、ディエンビエンフーまで回った。ディエンビエンフーとソンラーからラオスへの陸路入国を試みたが、どちらも国境警備隊に止められて玉砕した。その話はまた別の記事で書く。
5月28日、ハノイからベトナム航空のツポレフでビエンチャンへ飛んだ。JALのDC-10でホーチミンに入国し、ソ連製のツポレフでベトナムを去った。パスポートのスタンプがそう記録している。
30年後、ポジフィルムの箱を開けた
30年後。
2026年、自宅でポジフィルムの箱を開けた。ビデオライトの上にマウントを置き、ルーペ越しにスマホで撮影する。とりあえずの確認用だ。
白衣の女性が笑っていた。
ハノイまでの1ヶ月で、私はたくさんのベトナム女性を撮っていた。ハガキ売りの少女、天秤棒のフォー屋、花屋のおばさん、仕立屋のお姉さん、モン族の赤い頭巾の人、帽子屋の姉ちゃん。市場の、路上の、村の女性たち。
この写真だけ、明らかに違うオーラがあった。
カルテを広げる所作、眼差しの落ち着き、白衣の似合い方。1995年のハノイで女性の担当医になる—それ自体が、相当な人物だった。だから入院した時、熱で朦朧としながら思ったのだ。「え?ベトナムで女医さん?」—これは絶対に撮らなきゃ、と。
胸ポケットに赤い文字の刺繍が見えた。しかし、読めない。
AIに画像を読み込ませた。
バックマイ病院—Bệnh viện Bạch Mai。ハノイ最大の総合病院だという。
調べて驚いた。1911年、フランス植民地時代に建てられた病院だった。ベトナム戦争ではアメリカの爆撃で破壊され、ソ連の援助で再建された。フランスが建て、ソ連が再建した病院。熱で朦朧としながら直感したことは、そのまま正解だった。
1995年はアメリカとベトナムが国交を正常化した年だった。英語の時代は、まだ来ていなかった。
さらに調べると、2000年に日本政府の無償資金協力で大規模に改修・近代化されていた。自分が入院した5年後に、日本のODAで変わり始めた病院だった。現在はベッド数3,500、スタッフ4,300人、13階建ての本館を擁するベトナム屈指の近代的医療施設になっている。
あの「ここ大丈夫かな」と思った古い病院は、もう存在しない。
31年後、診断書が出てきた
記事を公開してから、しばらく経った頃のことだった。別件のポジフィルムを探していて、古い荷物のレジ袋を一つひとつ確かめていた。その中の一枚に、皺くちゃの紙が混じっていた。広げてみると、バックマイ病院国際部(KHOA QUỐC TẾ)の用紙—退院証明書(GIẤY RA VIỆN)だった。

書かれていた情報を整理しておく。
- 入院期間:1995年4月29日〜5月2日(3泊4日)
- 滞在先(住所欄):ESPECEN HOTEL(当時のハノイ旧市街にあるホテル)
- 診断名:Upper respiratory infection(急性上気道炎)
- 処方薬:Cefomic(セフェム系抗生剤)、Baralgin(解熱鎮痛剤、ソ連圏で広く使われた)、Becozyn(B群ビタミン剤)
- 医師アドバイス:continue treatment our hospital(退院後もバックマイ病院の外来で治療を継続すること)
30年「たぶん咽頭炎だと思う」と曖昧に書いてきた病名が、ここで急性上気道炎として確定した。Baralginという薬名は、当時のハノイの病院に1990年代半ばまでソ連圏の医薬品が流通していた事実を示している。”continue treatment our hospital” は厳密にはネイティブの英語ではないが、意図は明瞭—「うちの病院で外来治療を続けること」。
そして気づいたことが一つある。当時の自分は、野戦病院のような病室、英語の通じない職員、見たこともない古い機械を前にして、正直「こんな病院で大丈夫かな」と思っていた。31年経って診断書を読み返してみると、診断は妥当、処方薬は当時のベトナムで入手可能な範囲では筋の通った組み合わせ、退院後の指示も当然のもの。医療機関として、当たり前のことが当たり前に書かれていた。大丈夫じゃなかったのは病院ではなく、こちらの目の方だった。
担当医の署名欄には、名前が記されていた。30年「名前も知らない先生」と書いてきた人の名前が、ようやくわかった。ただし、名前は本人に届けるまで自分の中だけに置いておきたい。
忘れられない人たち
30年以上、東南アジアを旅してきた。
その中でも、この入院の記憶は特別だ。もう一つ、同じくらい忘れられない医療の記憶がある。ラオスのルアンパバーンの診療所。そこで会った先生と、あとで世話になったホテルの女性。その話は、また別に書くつもりでいる。
息子さんが今どうしているかもわからない。
でも、やさしい先生の顔はポジフィルムが覚えていた。そして31年経って、紙切れがもう一つの記憶を返してくれた。
先生がまだどこかで健在なら、この写真を届けたい。
JALのチケットが当たらなかったら、先生とも出会っていなかった。