粿條(グオティアオ)の地図 ― 潮州の米麺が東南アジアを覆うまで

東南アジア各国の米麺スープ5杯を木のテーブルに並べた俯瞰写真。タイのクイッティアオ、カンボジアのクィティウ、ベトナムのフーティウ、マレーシアのクイティオ、ラオスのフー

20代の頃、ニュージーランドでワーキングホリデーをしていた。英語の上達に最も貢献してくれたのは、マレーシア人の友人だった。おかげで英語はバリバリのマレーシアンイングリッシュになった。

その後、東南アジアを旅するようになっても、麺を食べたければ「noodle soup」と言えば済んだ。タイでもカンボジアでもベトナムでも、指差しと「ヌードルスープ」で一杯の麺は出てくる。それぞれの国に固有の名前があることなど、当時の自分は考えもしなかった。

タイに深く入り込み、タイ語を覚え、屋台のおばちゃんに「センレック・ナムサイ・ムー」と注文するようになった頃、ようやく「クイッティアオ(ก๋วยเตี๋ยว)」という固有名詞が体に馴染んだ。

そして30年近く経った今、この言葉の語源が中国・潮州の方言で「粿條(グエディアオ)」と呼ばれる米麺だったと知った。同じ名前が、国境を越えるたびに少しずつ姿を変えながら東南アジアの広い範囲に広がっている。メコン川を東に渡ればカンボジアのクィティウ(គុយទាវ)になり、さらに東のサイゴンではフーティウ・ナムヴァン(Hủ tiếu Nam Vang)として愛される。マレー半島を南下すればクイティオ(Kway Teow)に変わり、シンガポールの屋台では炒められてチャークイティオ(Char Kway Teow)になる。

なぜ国ごとに呼び名が違うのか。なぜ、ある国では国民食になり、別の国では朝食の一選択肢にとどまるのか。そしてなぜ、ラオスだけはこの名前を使わず、ミャンマーではそもそも見かけないのか。

一杯の麺から始まる問いを辿ると、潮州華人の移住の歴史と、インドシナ半島の植民地時代が見えてくる。

粿條 ― すべての始まり

すべての起点は、中国広東省の潮州(チャオジョウ)にある。

潮州語で「粿條(グエディアオ)」と呼ばれるこの米麺は、長粒米の米粉を水で溶いて薄く蒸し、切り分けて作る。日本のきしめんに似た平たい形状だが、原料は小麦ではなく米だ。潮州の街を歩けば、今でも粿条の食堂はいたるところにあり、牛肉の煮込みや魚のつみれをトッピングした一杯が庶民の日常食として生きている。

バンコク在住のタイ料理研究家・西尾康晴氏は、実際に潮州を訪れて現地の粿条を食べ歩いている(参考:激旨!タイ食堂「中国・潮州で見たタイ料理の源流」)。西尾氏が報告した興味深い事実がある。潮州の粿条食堂のテーブルには、タイのクイッティアオ屋に必ず置いてある「4種の卓上調味料」—ナンプラー、唐辛子入り酢、粉末唐辛子、砂糖—がない。あるのは酢と味噌だけだ。

あっさりとしたスープで食べる潮州の粿条が、タイに渡って「4点セット」を獲得するまでの変容。その過程には、潮州人の大移動という歴史が横たわっている。

海の民が海路で運んだ麺

潮州人(テオチュー)は、中国南部の沿岸に暮らす海洋民族だ。古くから交易船で東南アジアと行き来していたが、17世紀以降、戦乱や飢饉を逃れて大量に移住するようになった。

彼らの移住先は、海上交易ルートに沿っていた。バンコクはチャオプラヤ川の河口から遡上できる。プノンペンはメコン川で繋がっている。サイゴンもペナンもシンガポールも、すべて港か河口に位置する商業都市だ。移り住んだ潮州人は各地で食堂を開き、故郷の粿条を出した。現地の人々がそれを食べ始め、潮州語の「粿條」がそれぞれの言語で音写されていった。

タイ語では ก๋วยเตี๋ยว(クイッティアオ)。カンボジア語では គុយទាវ(クィティウ)。ベトナム語では Hủ tiếu(フーティウ)。マレー語では Kway Teow(クイティオ)。音がわずかに変わりながらも、すべて同じ「粿條」を指している。

しかし、同じ粿條が伝わっても、その土地での浸透度はまったく異なる。粿條がどれだけ深くその国の食生活に根付いたかは、潮州人がどれだけ大量に、どれだけ深くその社会に融合したかとほぼ正比例している。

大陸側 ― インドシナの汁麺文化

タイ ― 唯一の「国民食」

タイにおけるクイッティアオの定着は、18世紀後半まで遡る。

1767年、アユタヤ王朝がビルマ軍の侵攻で崩壊した後、トンブリー王朝を建てたのがタクシン王だった。タクシン王は潮州出身の両親を持つ華人系の人物であり、在位中(1767〜1782年)にタイ国内における華人の商売を奨励した。これにより、潮州人を中心とした華人が中国本土から大量にタイへ移住する。

移り住んだ潮州人が開く食堂には、当然のように故郷の粿条が置かれた。タイ人が「グオティアオ」を自分たちの舌で発音すると「クイッティアオ」になった。こうして潮州の米麺は、タイの国民食への道を歩み始めた。

ただし、潮州のあっさりした粿条がそのままタイ人に受け入れられたわけではない。トムヤムクンに代表される「辛い・酸っぱい・甘い」のはっきりした味を好むタイ人には、潮州式の淡白なスープでは物足りなかった。そこで潮州系の食堂主たちは、客自身が味を調整できるようナンプラー・唐辛子入り酢・粉末唐辛子・砂糖の「4点セット」をテーブルに置き始めた——これは潮州本土にはない、タイ独自の発明である。

現在のクイッティアオは、麺の太さ(センミー、センレック、センヤイ)、スープの種類(ナムサイ、トムヤム、ナムトック、イエンタフォー)、トッピング(豚、鶏、牛、魚介)を自由に組み合わせる「カスタマイズ」の文化として完成している。朝食から夜食まで、屋台からフードコートまで、どこでもいつでも食べられる。粿條がここまで完全に国民食化した国は、東南アジア広しといえどタイだけだ。

タイにおける華人系人口の比率は10〜14%とされ、その大半が潮州系である。王族にまで潮州の血が入り、食文化の根幹に粿條が組み込まれた。この浸透度は他の国とは比較にならない。

なお、クイッティアオが名実ともにタイの国民食となった背景には、1940年代のピブーン政権による「麺を食べよう」キャンペーンがある。第二次大戦中の洪水で米不足に陥った際、政府は米よりも少ない原料で作れる米麺の消費を奨励し、無料の麺カートを国民に配布した。その過程で生まれたのが「クイッティアオ・パッ・タイ」—後のパッタイだ。潮州から来た麺に「タイ」の名を冠して国民食に仕立てるという、皮肉な歴史がここにある。

クイッティアオの詳しい解説・注文方法はこちら:クイッティアオ完全ガイド

ピブーン政権の文化政策「ラッタニヨム」がタイ社会に何を残したかについては、タイの女子大生はなぜ制服を着ているのか で詳しく書いた。

カンボジア ― 朝食の一杯、しかし国民食ではない

カンボジアにも潮州系華人は多く移住しており、プノンペンのオールドマーケット周辺を中心にクィティウ(Kuy Teav)文化が根付いた。

カンボジアのクィティウは朝食の料理だ。早朝、市場の屋台に座り、澄んだ豚骨スープに米麺を入れた一杯を啜るのがカンボジア人の朝の始まりであり、多くの店は昼前に売り切れてしまう。プノンペン版のクィティウは具材が豪華で、挽肉、薄切りロース、豚バラ、レバー、血のゼリーなど、豚のあらゆる部位が一杯に投入される。

しかし、クィティウはカンボジアの国民食かと聞かれると、答えはノーだ。カンボジア人に「あなたのソウルフードは何か」と聞けば、返ってくるのはバーイ・サッチ・チュルーク(豚肉ごはん)だろう。炭火で焼いた豚肉をごはんに載せ、漬物と澄んだスープを添えた朝食。クィティウはその隣に並ぶ選択肢のひとつであって、生活の中心に座る存在ではない。

粿條文化がタイのように「朝から晩までいつでもどこでも」にはならなかった。朝食の一杯として愛されてはいるが、その先へは進まなかった。

クメール料理の全体像についてはこちら:クメール料理ガイド

ベトナム南部 ― 借り物の名前が語る移動の歴史

ベトナム南部、とりわけホーチミン(旧サイゴン)で日常的に食べられているフーティウ・ナムヴァン(Hủ tiếu Nam Vang)は、名前自体がその起源を物語っている。「ナムヴァン」とはベトナム語でプノンペンの意味だ。つまり「プノンペンのフーティウ」。

1960年代、カンボジアからベトナム南部に移住した人々が、プノンペンのクィティウを持ち込んだ。ベトナムの料理人たちはこれを自国の味覚に合わせてアレンジし、カンボジアでは内陸ゆえに少なかった海産物—エビやイカ—を加えた。スープはやや甘くなり、付け合わせの生野菜とハーブの量が増えた。

重要なのは、ベトナム人がこの料理の名前にカンボジアの首都名を残したことだ。借り物であることを隠さなかった。フーティウ・ナムヴァンという名前そのものが、東南アジアにおける食文化の移動と受容の証拠になっている。


フォーは別の話 ― 粿條より新しい麺

ここで、多くの人が混同しがちなポイントを整理しておきたい。

ベトナム料理の代名詞であるフォー(Phở)は、粿條ファミリーとは別の系譜に属する料理だ。

フォーは比較的歴史の浅い料理であり、登場したのはフランス領インドシナ時代の20世紀初頭。ハノイないしその南東にあるナムディン省で生まれたとする説が有力である。語源にはフランス語の「feu」(ポトフの「フー」=火、煮込むの意)から来たという説があり、フランス植民地時代に牛肉を食べる習慣が広まったことと関連している。

麺自体は米粉を蒸して薄いシートにしてから切るもので、潮州の粿条や広州の河粉と製法は近い。しかしスープの設計が根本的に異なる。フォーのスープは牛骨を長時間煮出し、スターアニスやシナモンといったスパイスで香り付けをする。これは中国南部の米麺文化にもタイのクイッティアオにもない、フランス料理のブイヨンの影響を受けた独自の進化だ。

つまりフォーは「麺は粿條系、スープはフランス系」という二重のルーツを持つ混血児である。

そして見落とされがちな事実がある。ベトナム南部ではフォーよりもフーティウやブン(発酵米粉の丸麺)の方が好まれている。フォーは本来、ベトナム北部の料理だ。世界的にはフォーがベトナムの国民食として知られているが、ベトナム国内の麺の地層を掘れば、フーティウの方がはるかに古い。フーティウは潮州華人とともに数百年の歴史を持つ粿條ファミリーの正統な末裔であり、フォーは20世紀に生まれた「新参者」なのである。

ベトナム料理の北部・中部・南部の違いについてはこちら:ベトナム料理の地図

ラオスのフー ― なぜ「クイッティアオ」と呼ばないのか

粿條の地図の中で、ひとつだけ不思議な空白がある。ラオスだ。

タイの隣国であり、言語も文化も近い。メコン川を挟んで向かい合うビエンチャンとノンカーイの間を行き来する人は多く、タイのテレビ番組はラオスでも日常的に見られている。にもかかわらず、ラオスにはクイッティアオという言葉がない。

ラオスで同じ米麺料理を指す言葉は「フー(ເຝີ)」だ。これはベトナムのフォー(Phở)の音写であり、粿條とは別の系譜の名前を使っている。しかもフーはラオスの国民食ではない。ラオス人に「あなたのソウルフードは何か」と聞けば、カオピアックセン—米粉にタピオカ粉を混ぜたもちもちの太麺—の名前が挙がるだろう。フーは選択肢のひとつではあるが、カオピアックセンほどの存在感はない。

なぜ粿條がラオスに届かなかったのか。その答えは、地理と歴史の両方にある。

90年代、チェンコーンからメコン川を渡ってラオスのファイサーイに入ったことがある。そこから先は山また山で、ビエンチャンにたどり着くまで何日もかかった。国土の7割が山岳地帯。道路はなく、川沿いの集落を繋ぐ細い道がかろうじてある程度。中国鉄道ができた今でこそルアンパバーンまで数時間だが、つい最近まで、ラオスの国内移動そのものが冒険だった。

潮州人は海の民だ。船で着ける港がある場所にしか行かない。バンコクもプノンペンもサイゴンもペナンもシンガポールも、すべて海か大河に面した港町。でもラオスは東南アジアで唯一の内陸国であり、海に面していない。しかも国土の大半が山。商売の拠点にする理由がまったくない。粿條という言葉が持ち込まれる機会そのものがなかったのだ。

代わりにラオスに影響を与えたのは、ベトナムだった。

1899年、フランスはラオスを保護国化し、フランス領インドシナに編入した。この植民地体制の下で、ベトナム人は現地官僚としてラオスに派遣された。フランス領インドシナ全体でベトナム人は人口の70%を占めており、科挙の伝統に基づく官僚制を持っていた彼らは、カンボジアやラオスに送り込まれてフランスの統治を現場で支えた。

つまりラオスの行政と商業のインフラには、ベトナム人が深く入り込んでいた。麺の文化もベトナム経由で伝わった。だから名前はフォー(Phở)→ フー(ເຝີ)になった。

海の民(潮州人)は海路で港に着いた → 粿條。 陸の行政(フランス+ベトナム人官僚)は山を越えて来た → フォー。

同じ米麺なのに名前が違う理由は、「誰が持ち込んだか」の違いに帰着する。一杯の麺の呼び名が、東南アジアにおける人の移動の地図をそのまま映し出している。

ラオス料理の全体像についてはこちら:ラオス料理の世界

海峡側 ― マリタイムの炒め麺文化

粿條の地図には、もうひとつの大きな枝がある。マレー半島からインドネシア諸島にかけての「海峡側」だ。

19世紀から20世紀初頭にかけて、潮州人と福建人はマレーシア、シンガポール、インドネシアにも大量に移住した。ペナンでは福建人が人口の多数を占めたが、ストリートフードの文化を支配したのは潮州人だった。チャークイティオ(Char Kway Teow)、クイティオトゥン(Kway Teow Th’ng)、クワイチャップ(Kway Chap)など、ペナンを代表する屋台料理の多くが潮州にルーツを持つ。

面白いのは、同じ粿條がインドシナ大陸側と海峡側で異なる方向に進化したことだ。

大陸側(タイ、カンボジア、ベトナム)では汁麺が主流になった。スープに麺を入れ、具をのせ、卓上調味料で味を仕上げる。屋台の小さな鍋で一杯ずつ作る「ワンオーダー・ワンボウル」のスタイルが定着した。

一方、海峡側(マレーシア、シンガポール)では炒め麺が国民食級に発展した。チャークイティオは、幅広い米麺を猛火で炒め、醤油とラードの煙をまとわせる。血貝(コックル)と中華ソーセージが入り、卵で全体を絡める。潮州本土の粿条からは想像もつかない変貌だが、同じ「粿條」の名を冠している。

なぜ炒めるスタイルが発達したのか。一説には、マレー半島のスズ鉱山や農園で働く華人労働者に、安価で高カロリーな食事を素早く提供する必要があったからだとされる。ラードで炒めた麺は、スープ麺よりも腹持ちがよく、調理も速い。労働者の食事として合理的だった炒め粿條が、やがて屋台文化の花形に昇華した。

ただし、マレーシアではクイティオよりもラクサやナシレマの存在感が圧倒的に強い。ペナンではチャークイティオが名物でも、KLから南下するとラクサとナシレマの世界になり、クイティオは後退する。粿條が「それしかない」レベルで生活に浸透しているのは実はタイだけであって、マレーシア以南では数ある屋台メニューのひとつに過ぎないのだ。

インドネシアでは「クエティアオ・ゴレン(Kwetiau Goreng)」として炒め麺文化が広まっている。ゴレンはインドネシア語で「炒める」の意味。ナシゴレン(炒めごはん)やミーゴレン(炒め麺)と同じ文法で、粿條もまた炒められてインドネシアの屋台に溶け込んだ。

米麺の西の果て ― ミャンマーという境界線

粿條の地図には、入らない国もある。

ミャンマーで粿條系の麺を見た記憶がない。30年近く東南アジアを歩いてきて、タイでもカンボジアでもベトナムでもマレーシアでも当たり前のように出会った米麺のスープが、ミャンマーにはない。

ミャンマーの麺文化の中心はモヒンガー(Mohinga)だ。川魚を煮出したスープに米のビーフンを入れた朝食専用の麺料理で、ナマズの旨味とレモングラスの香りが特徴。ミャンマーにも華人は移住しているが、雲南系が主流で、潮州系ではない。雲南系の食文化はシャンヌードルやモヒンガーの方向に影響を与えたが、粿條は持ち込まなかった。ミャンマー固有の麺文化—オンノーカウスェー(ココナッツミルク麺)やシャンヌードルなど—がすでに成熟していたことも、粿條が入り込む余地を狭めた。

そしてミャンマーの西はインド亜大陸だ。インドには「スープに米麺を入れて食事として食べる」文化がほぼ存在しない。ミャンマーのモヒンガーは、アジアの米麺文化の西の果てにある砦といっていい。

実はこの構図、以前書いた「カレーの果て」と完全に対になっている。

カレーはインドから東に進むにつれて薄まり、ベトナムで消える。米麺は中国南部から西に進むにつれて薄まり、ミャンマーで止まる。両方がちょうどインドシナ半島のあたりで交差している。タイのカオソーイ—カレースープに米麺を入れた料理—は、まさにこの二つの文化圏が重なる地点に生まれた料理だ。

フィリピンのパンシット(Pancit)は、福建系華人が持ち込んだ麺文化だが、粿條とは系統が異なる。炒め麺や焼きそばの形で発展し、「汁麺としての粿條」という形式をとらなかった。名前も福建語の「便食(ピエンシック=軽食)」に由来するとされ、粿條ファミリーの音韻的な系譜には属さない。

粿條の浸透度マップ

ここまでの旅を振り返ると、粿條文化の浸透度には明確なグラデーションがあることが見えてくる。

国民食として完全に定着 ― タイ。朝から晩までいつでもどこでも。潮州系華人の人口比率が最も高く、王族にまで潮州の血が入った国。

朝食の定番だが国民食ではない ― カンボジア(ソウルフードはバーイ・サッチ・チュルーク)、ベトナム南部(フーティウは南部限定、北部はフォーとブンの世界)。

炒め麺として発展したが多数あるメニューのひとつ ― マレーシア(ラクサやナシレマが主役)、シンガポール(ホーカー文化の一角)、インドネシア(クエティアオ・ゴレン)。

名前すら粿條系ではない ― ラオス。潮州人が来なかったので、ベトナム経由の「フー」。しかも国民食はカオピアックセン。

そもそも存在しない ― ミャンマー。潮州系華人がおらず、独自の米麺文化が先行。米麺文化の西の果て。

このグラデーションは、潮州人の移住密度とほぼ正比例している。海路で大量に移住し、社会に深く融合した国ほど粿條は浸透し、海から遠い内陸国や、別の華人系統が先行した国では根付かなかった。

まとめ ― 一杯の麺が映す人の移動

粿條の地図を広げると、東南アジアの歴史がそのまま浮かび上がる。

潮州の海洋民族が船に乗り、バンコクに着けばクイッティアオになり、プノンペンに着けばクィティウになり、サイゴンに着けばフーティウになり、ペナンに着けばクイティオになった。海から遠いラオスには潮州人が来なかったので、代わりにフランス植民地の官僚として山を越えて入ったベトナム人がフォーを持ち込み、フーという名前が定着した。ミャンマーにはそもそも粿條が届かず、モヒンガーが米麺文化の西の砦として立っている。

同じ麺が、大陸側では汁麺として、海峡側では炒め麺として、それぞれの気候と暮らしに合わせた形に進化した。世界的にはベトナムのフォーが最も有名だが、実はフォーは20世紀生まれの新しい料理であり、粿條ファミリーの方がはるかに古い地層に属している。

20代の頃、「noodle soup」のひと言で済ませていたものの正体を、30年かけてようやく知った。一杯の麺の名前を辿るだけで、潮州からインドシナ全域、マレー半島からインドネシア諸島にまで広がる、人と文化の移動の痕跡が見えてくる。

屋台のプラスチック椅子に座って、次のクイッティアオを待ちながら、そんなことを考えている。

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参考

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