
右手に一週間、カレーの色が残った
実は、フィジーの前にも似たような機会があった。トンガでインド系の住民にピクニックに誘われたのだ。約束の時間にうっかりホテルを出てしまい、夕方戻るとスタッフに「誰か来ていたよ」と言われた。きっとカレーを囲むランチだったに違いない。その機会は永遠に失われた。
その半年後、フィジーで今度こそ食べた。
ある日、ビーチでぼんやりしていると、近くにいた作業員に声をかけられた。ホテルで改修工事をおこなっておいるインド系の男性だった。話すうちに「一週間後に実家に帰る、よかったら来ないか」という話になった。
ネットなど存在しない時代だ。約束の日にナンディのバスターミナルで待ち合わせをして、一緒に彼の実家へ向かった。
食べ物は床に並んだ。家の人たちと車座になって座り、ロティとライスと豆のカレーを囲んだ。ロティというのはチャパティとほぼ同じもので、全粒粉を水で捏ねて薄く伸ばし、鉄板で焼いた素朴なパンだ。フォークもスプーンも出てこなかった。皆は当然のように右手でロティをちぎり、カレーと混ぜながら食べた。
その家にタンドゥール窯などなかった。あるわけがなかった。ナンが出てくることもなかった。
食後、右手を洗っても洗っても、スパイスの色が落ちなかった。一週間ほど、右手の指の間にカレーの色が染みついたままだった。それが私のインド料理との最初の出会いだ。
フィジーのインド系住民は、19世紀にイギリスが南太平洋の砂糖農園に連れてきた年季奉公労働者(ギルミティア)の子孫だ。出身はインド各地だが、農村部の低層民が多かった。南太平洋の島で150年以上、インドの食文化を守り続けてきた人たちの食卓に、ナンはなかった。
のちにインドを旅したときも、ナンは一度も出てこなかった。ハイデラバード、ハンピ、バダミ、アジャンタ、ムンバイ。デカン高原を横断するように移動した旅の間、食堂で出てきたのは常にチャパティか米だった。
日本のインド料理屋で当たり前に出てくるナンは、私が知っているインドの食卓には存在しなかった。
ナンとチャパティ、何が違うのか
まず基本的な違いを整理しておく。
チャパティは全粒粉(アタ)を水だけで捏ね、薄く伸ばして鉄板(タワ)で焼く。インド・パキスタン・ネパール・バングラデシュなど、南アジア全域で日常的に食べられている最も一般的な主食のひとつだ。油も酵母も使わない。設備は鉄板一枚あれば十分で、どんな家庭でも作れる。
ナンは精製小麦粉(マイダ)に水、塩、そしてヨーグルトやイーストを加えて発酵させた生地を、タンドゥールと呼ばれる壺型の炭火窯の内壁に貼り付けて焼く。高温のタンドゥールで焼くことで独特のふくらみと焦げ目がつき、もちもちした食感になる。
原料、焼き方、必要な設備、どれをとっても全く異なる食べ物だ。
普及域にも明確な差がある。チャパティは南アジア農村部の日常食で、インドのほぼすべての地域で食べられている。ナンは北インド、特にパンジャブ地方や都市部のレストランで出てくるものだ。インド南部ではナンを食べる文化自体がほとんどない。南インドの主食はライスであり、ドーサ、イドゥリ、パロタといった別の粉食文化がある。
「インド料理=ナン」という日本のイメージは、地理的にも文化的にも、インドの一部分を切り取ったものに過ぎない。
「精製」という価値
なぜナンはインドで、そして日本で「特別なもの」として扱われるのか。
鍵は小麦粉の「精製」にある。
全粒粉(アタ)は小麦をそのまま挽いたもので、ふすま(外皮)と胚芽が含まれる。茶色く、粗く、素朴な見た目だ。精製小麦粉(マイダ)は外皮と胚芽を取り除き、胚乳だけを挽いて白く仕上げたものだ。精製には手間がかかる。白ければ白いほど、より多くの工程を経たことを意味する。
白い粉は歴史的に「格上」のシグナルだった。これはインドに限った話ではない。白米、白砂糖、白いパン—世界中で「精製=上等」という価値観が存在してきた。食べるものを白く精製できるということは、それだけの富と設備を持っていることの証明だったからだ。
ナンにはもうひとつ、設備のハードルがある。タンドゥール窯だ。
タンドゥールは直径50センチほどの壺型の窯で、炭火を使って内部を300度以上に加熱する。これだけの設備は一般家庭には置けない。タンドゥール料理は必然的に、それを持つ豊かな家庭か、商業的な飲食店のものとなる。
つまりナンは、精製小麦粉という「白さ」と、タンドゥールという「設備」の二重の意味で、日常の食卓から切り離された「格上」の食べ物として位置づけられてきた。インドの都市部のレストランやムガル料理の文脈で発展したことも、この文脈と無関係ではない。
チャパティはその対極にある。全粒粉、鉄板、家庭の竈。日常そのものの食べ物だ。
デカンの食堂で見たもの
インドを旅したとき、ハンピのロードサイドの食堂で食べたチャパティのことを今も覚えている。
ハンピはカルナータカ州の農村部に広がるヴィジャヤナガル王朝の遺跡群だ。観光地ではあるが、周辺はカンナダ語圏の普通の農村だ。地元の人向けの食堂では、チャパティとダル(豆のスープ)と野菜の炒め物が数十ルピーで出てきた。メニューにナンはなかった。そもそも存在しないのだから、あるはずがない。
バダミでも、アジャンタへの道中でも同じだった。土埃の舞うロードサイドのダバ(食堂)、プラスチックのテーブル、チャパティを何枚もおかわりして腹を満たすトラック運転手たち。ナンの影はどこにもなかった。
ハイデラバードは少し違う。ニザーム王朝の影響を受けたムスリム文化の色濃い都市で、ビリヤニが名物だ。ここでは北インド的な小麦粉料理も見かけるが、それでも日常の主食の中心はライスだ。ナンは特別な食事の文脈にしか現れない。
デカン高原を横断する旅の中で、私はついに一度もナンを食べなかった。食べる機会がなかったのではなく、そもそもその食文化圏に存在しなかったのだ。
「インド料理=ナン」はどこで作られたのか
日本のインド料理屋でナンが当たり前に出てくるのは、1970〜80年代以降の外食産業の歴史と深く関係している。
日本に進出したインド料理店の多くは、北インドやネパール出身の経営者によるものだ。タンドゥール文化圏の料理人が、見栄えのするナンをメニューの中心に据えた。日本人の目に「エキゾチック」に映り、白米に慣れた舌には「ふかふかのパン」として受け入れやすかったナンは、急速に「インド料理の顔」として定着した。
しかし実際のインドでは、13億人以上の人々がそれぞれの地域の主食を食べている。北インドではチャパティ、南インドではライスやドーサ、西インドのグジャラート州ではバジュリ(トウジンビエのロティ)、東インドでもライスが中心だ。宗教、カースト、地域、経済状況によって、食卓に並ぶものは全く異なる。
「何を食べているか」がそのまま、その人の出身地と階層とアイデンティティを示す。インドとはそういう社会だ。ナンはその多様な食の断面のひとつに過ぎない。それも、都市のレストランと特定の文化圏という、限られた断面だ。
チャパティが教えてくれること
フィジーの民家での食事に戻ろう。
ギルミティアの子孫たちが南太平洋の島で守り続けてきた食は、北インドの都市レストランの料理ではなく、農村の日常食だった。ロティとライスとダル。タンドゥールもマイダも必要としない、鉄板一枚で作れる食べ物。
インドから遠く離れた島で、百年以上の時を経ても変わらずに受け継がれてきたのは、ナンではなくロティだった。
日常の食とは、設備がなくても、富がなくても、毎日作り続けられるものでなければならない。チャパティの素朴さには、その合理性がある。精製もタンドゥールも必要としないその食べ物こそが、インドの食文化の骨格を長い時間をかけて作ってきた。
日本のインド料理屋でナンをちぎるとき、それがインドの「一断面」に過ぎないことを知っておいて損はない。インドの食は、その一断面よりずっと広く、複雑で、豊かだ。
右手に一週間残ったカレーの色が、そのことを教えてくれた。