「インドネシア料理」という幻想—17,000の島と300の民族が食べるもの

パダン料理の食堂に並ぶ十数皿の料理——ルンダン、グライ、サンバルが所狭しと積み上げられたインドネシアの食卓

ナシゴレンの罠

ナシゴレン、ミーゴレン、サテ、ミーバッソ。「インドネシア料理といえば?」と聞かれたら、多くの人がこのあたりを挙げるだろう。実際、これらはインドネシアのどこに行っても食べられる。ジャカルタでも、バリでも、スラウェシの地方都市でも、ワルン(大衆食堂)の屋台に立てば必ずある。

だが、それは「インドネシア料理の代表」だからではない。どこの地域の料理でもないからこそ、全土に広がったのだ。

筆者は30年にわたって東南アジアを歩いてきた。タイには数えきれないほど通い、カンボジアには20回以上、ラオスもミャンマーもベトナムも歩き尽くした。だがインドネシアだけは、全土踏破を諦めた。東西5,100キロメートル、17,000以上の島、300を超える民族。スラウェシを陸路で縦断し、ペルニの船で島を渡り歩いても、まだ見えない世界が果てしなく続いていた。行けば行くほど打ちのめされる。この国は括れない。

そんな国の食を「インドネシア料理」と一語で片づけていいのか。答えはもちろん、ノーだ。

「国民食」はなぜ生まれたか—ナシゴレンと国家統合

ナシゴレンがインドネシア全土で食べられている背景には、単なる「美味しいから広まった」では済まない歴史がある。

インドネシアは1945年の独立以降、「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal Ika)」を国是として掲げ、数百の民族をひとつの国民国家にまとめ上げる国家統合を最大の課題としてきた。スカルノ、そしてスハルトの時代を通じて、インドネシア語の普及、トランスミグラシ(移住政策)によるジャワ人の外島への入植、そして「インドネシア国民」としてのアイデンティティ形成が強力に推進された。

食の世界でも同じことが起きた。ナシゴレンやサテ、ミーバッソといった料理は、特定の民族や地域に紐づかない—あるいは、紐づきを意図的に曖昧にされた—「国民食」として機能した。ナシゴレンは華人の炒飯文化に起源を持つが、いまやそれを「華人料理」と認識するインドネシア人はほとんどいない。ミーバッソも同様だ。屋台という匿名的な流通形態と結びつくことで、民族的な出自が漂白され、誰のものでもない「インドネシアの味」として定着した。

90年代、筆者がインドネシアを旅していた頃、毎日のように食べていたのはワルンのミーバッソだった。一杯500ルピア。週50ドルの予算で島を渡り歩く旅には、この上なくありがたい一杯だった。だがあの頃は、ミーバッソを「インドネシア料理」だと素朴に信じていた。それがいかに表層的な理解だったか、各地を歩くうちに思い知ることになる。

スマトラ:パダン料理という「もうひとつの国民食」

インドネシアの食を語るうえで、まず避けて通れないのがパダン料理(マサカン・パダン)だ。西スマトラのミナンカバウ人が生んだこの料理体系は、インドネシア全土、さらには東南アジア各国にまで拡散し、ひとつの「食の帝国」を築いている。

パダン料理の特徴は、ルンダン(スパイス煮込み)、グライ(ココナッツカレー)、各種サンバル(チリソース)を中心とした、濃厚でスパイシーな味つけにある。食堂に入ると、注文を聞かれることなく、十数種類の皿が目の前に積み上げられる。食べた分だけ支払い、手をつけなかった皿はそのまま戻される。このスタイル自体がミナンカバウの合理性を体現している。

だが、パダン料理がインドネシア全土に広がった理由は味だけではない。ミナンカバウには「rantau(ランタウ)」と呼ばれる旅立ちの文化がある。若い男性は故郷を離れて外の世界で身を立てることが期待される。母系社会であるミナンカバウでは、土地や家屋は女性が継承するため、男性は外に出て稼ぐしかない。その結果、ミナンカバウの人々はインドネシア全土に離散し、行く先々でパダン料理の食堂を開いた。

つまり、パダン飯屋がどこにでもあるのは、フランチャイズ展開の結果ではなく、民族の離散と生存戦略の帰結なのだ。

スマトラにはパダン料理以外にも、北部アチェのミー・アチェ(太麺のスパイシーな焼きそば)、バタック人の豚肉料理(イスラム圏スマトラにおけるキリスト教少数民族の食文化)など、さらに多様な食の層が存在する。一つの島の中ですら括れない。それがインドネシアだ。

ジャワ:宮廷の洗練と屋台の猥雑

インドネシアの人口の半分以上が集中するジャワ島は、政治・経済の中心であると同時に、食文化においても独自の厚みを持つ。

ジャワ料理を理解する鍵は「甘さ」にある。グラ・ジャワ(ジャワの椰子砂糖)を多用した甘い味つけは、タイ料理の甘辛さともインド料理のスパイス感とも異なる、独特の味覚世界を形成している。ソロ(スラカルタ)やジョグジャカルタの宮廷料理では、この甘さが極限まで洗練される。繊細な味の重ね方、盛りつけの美学、食事作法の格式。東南アジアの宮廷料理としては、タイのそれと並ぶ奥行きがある。

一方で、ジャワの屋台文化は宮廷とは対極の猥雑さに満ちている。ジャカルタの夜の屋台街に立てば、ナシ・ゴレン、ミー・アヤム、ソト・ベタウィ、ケラック・テロール(黒い木の実で煮た卵)と、あらゆるものが煙と喧噪のなかで供される。ガドガド(茹で野菜のピーナッツソースがけ)ひとつとっても、ジャカルタ風、ジョグジャ風、スラバヤ風で味が違う。

ジャワの食は甘い。だがその甘さの中に、宮廷と庶民、ヒンドゥー・仏教の古層とイスラムの規範、華人の商業文化とジャワの農耕文化が、何世紀にもわたって折り重なっている。

バリ:ヒンドゥー圏の食卓

バリ島に渡ると、食の風景が一変する。

インドネシアは世界最大のイスラム人口を抱える国だが、バリはヒンドゥー教が支配的な例外的な島だ。イスラムの食の禁忌が適用されないため、豚肉がごく日常的に食卓に上がる。

バビ・グリン(豚の丸焼き)はバリを代表する料理だが、観光客がイメージするような豪快な丸焼きの光景は、実は祭礼や特別な場面に限られる。日常のバビ・グリンは、ワルンでナシ・チャンプル形式で供される。皿の上に飯が盛られ、その周囲にバビ・グリンの肉、パリパリの皮、ラワール(刻み肉とココナッツのサラダ)、サンバル・マタ(生のサンバル)が並ぶ。バックパッカー時代、筆者はこれをブンクス(持ち帰り)にしてロスメン(安宿)で食べていた。1,000ルピア。ミーバッソの倍で、ちょっとした贅沢だった。

宗教がひとつ変わるだけで、食のルールがここまで変わる。同じ国の中で、隣の島とは全く異なる食文化が何百年も維持されてきた。バリの食卓は、インドネシアという国の「括れなさ」を最もわかりやすく体現している。

スラウェシ・東部:海の民と、もうひとつの異端

スラウェシ島は、インドネシアの食の多様性をさらに極端な形で見せつける。

南スラウェシのマカッサルは、ブギス・マカッサル人の海洋交易の拠点として栄えた港町だ。ここにはコト・マカッサル(牛の内臓スープ)、チョト・マカッサル(同じく内臓ベースの濃厚なスープ)、ピサン・エペ(焼きバナナの椰子砂糖がけ)など、他のインドネシアの都市では出会えない独自の味がある。海洋民族の交易が運んだスパイスと食材が、この土地固有の味覚をつくり上げた。

そして北スラウェシのミナハサ地方に足を踏み入れると、食のタブーがもう一段階崩壊する。ミナハサはキリスト教圏であり、イスラムの食の戒律が及ばない。豚肉はもちろん、犬肉やコウモリ、森の野生動物が食材として普通に流通している。バリが「豚を食うインドネシア」なら、ミナハサは「犬すら食うインドネシア」だ。辛さもインドネシア随一で、リチャリチャと呼ばれる激辛チリソースが何にでもかけられる。

バリの豚食とマナドの犬食。このふたつの「異端」が、ひとつの国の中に共存している。イスラム、ヒンドゥー、キリスト教—宗教が変われば食のタブーが変わり、タブーが変われば食卓の風景がまるごと書き換わる。「インドネシア料理」を単一の体系として語ることの不可能性が、ここに凝縮されている。

見えない島々—踏破を諦めた先に

筆者が歩いたのは、インドネシアのほんの一部にすぎない。

カリマンタン(ボルネオ島インドネシア側)の内陸部には、ダヤク人のサゴヤシ文化と川魚料理の世界がある。小スンダ列島のフローレス島やティモール島には、東南アジアよりもむしろメラネシアに近い食文化が残る。パプア(ニューギニア島西部)に至っては、米ではなくサツマイモやサゴが主食であり、東南アジアの食の文脈からは完全に外れる。

マルク諸島はかつて「スパイス諸島」と呼ばれ、クローブとナツメグを求めてヨーロッパ列強がこの地に殺到した。世界史を動かしたスパイスの原産地だが、現代のインドネシア料理を語る文脈でマルクが言及されることはほとんどない。

これらの地域の食文化を、筆者はまだほとんど知らない。行けなかった島、食べられなかった料理が、まだ無数にある。インドネシアの食の全体像を描こうとする試み自体が、果てしない徒労であることを思い知らされる。

それでも「インドネシア料理」と呼ぶために

括れない。300の民族がそれぞれの風土と歴史と宗教のなかで育んできた食を、ひとつの名前で呼ぶことはできない。

だが、それでもナシゴレンは全土で食べられている。パダン飯屋はどの町にもある。ミーバッソの屋台は夜になればどこからともなく現れる。これらの「括れないはずの国を括っている料理」が存在すること自体が、インドネシアという国家の実験を映し出している。

17,000の島を束ねる国が、「多様性の中の統一」を食卓の上でも模索し続けてきた。ナシゴレンという最大公約数。パダン飯屋というミナンカバウのネットワーク。そして各地域が頑固に守り続けるローカルの味。

「インドネシア料理」とは、料理の名前ではない。それは多様性そのものの別名だ。

90年代、週50ドルで島を渡り歩いていた頃、毎日食べていたワルンのミーバッソ。あの500ルピアの一杯は、17,000の島のどこで食べても同じ味がした。そしてその一杯の外側に、まだ自分の知らない無数の食卓が広がっていることを、あの頃の自分はまだ知らなかった。

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