なぜベトナムにはグエンさんが多いのか ― 姓名の仕組みと文化的背景

国民の4割が同じ名字の国

ベトナムに行ったことがある人なら、一度はこう思ったはずだ。「グエンさん、多すぎないか?」と。

これは気のせいではない。ベトナムの人口約1億人のうち、約4割がグエン(Nguyễn・阮)姓を名乗っている。つまり、約4,000万人のグエンさんがこの国にいる計算になる。世界で4番目に多い姓であり、オーストラリアでは7位、フランスでは54位、アメリカでも57位にランクされている。

日本で最も多い「佐藤」「鈴木」「高橋」の三大姓を合わせても、日本の人口の4%に過ぎない。ベトナムでは「グエン」だけで40%、2位の「チャン」(約11%)、3位の「レー」(約9.5%)を合わせると60%を超える。

街中で「グエンさん!」と叫べば、通りすがりの半数近くが振り返る—冗談のようだが、あながち嘘でもない。

ベトナム人の名前の構造 ― 「姓+ミドルネーム+名」の3層構造

ベトナム人の名前は通常、3つのパーツで構成されている。

Họ(ホー)= 姓: 家族や血統を示す。基本的に1音節で、父方の姓を受け継ぐ。

Tên đệm(テンデム)= ミドルネーム: 姓と名の間に置かれる「クッションの名前」。性別の識別、世代の区分、あるいは名前全体の響きを整える役割を持つ。

Tên chính(テンチン)= 名: その人を個別に識別する名前。日常的に呼ばれるのはこのパーツだ。

たとえば「Nguyễn Văn An(グエン・ヴァン・アン)」であれば、Nguyễn が姓、Văn がミドルネーム、An が名。日常的には「アン」と呼ばれる。

名前は2語から4語構成が一般的だが、まれに5語という人も存在する。ただし、出会う確率はかなり低い。

ミドルネームの秘密 ― 「Văn」と「Thị」の消えゆく伝統

ベトナムのミドルネームには、独特のルールがある。

伝統的に、男性には Văn(ヴァン・文) 、女性には Thị(ティ・氏) がミドルネームとして付けられてきた。Văn は「文学」「学問」を意味し、男の子が学問を修め、立身出世することへの願いが込められている。一方、Thị はもともと中国語で「〜氏」を意味する接尾辞で、女性が特定の家に属することを示していた。

この命名慣行は紀元前475年〜331年の封建時代まで遡る。儒教的な男尊女卑の思想が色濃く反映された名残だ。

しかし、現代のベトナムではこの慣行は急速に廃れつつある。2020年代のアルファ世代の予防接種リストが話題になったことがあるが、リストの中にVănもThịも見当たらなかったという。

今の親世代は、より意味のある複合的なミドルネームを選ぶ傾向にある。女の子には「An Nhiên(穏やかな)」「Cát Anh(優雅な真珠)」、男の子には「Mạnh Khôi(力強い)」「Huy Hoàng(輝かしい)」など、個性を表現する名前が好まれている。Thị は「古臭い」「上品ではない」と敬遠され、たとえ戸籍上Thịが入っていても、日常では省略する人が多い。歌手のHồ Ngọc Hà(ホー・ゴック・ハー)の本名はHồ Thị Ngọc Hàだが、Thịは完全に省略されている。

また、ミドルネームには世代を示す機能もある。兄弟姉妹が同じミドルネームを共有し、親の世代と子の世代を区別するために使われることがある。さらに、母方の姓をミドルネームとして取り入れるケースも増えている。

なぜグエン姓がこれほど多いのか? ― 王朝交代の生存戦略

グエン姓がベトナム人口の4割を占める理由は、この国の王朝史に直結している。

938年から1945年まで、ベトナムは約1,000年にわたり王朝が国を治めてきた。呉朝に始まり、丁朝、前黎朝、李朝、陳朝、胡朝、そしてグエン朝(阮朝)へと続く。人々は自らの姓を、時の王朝の姓から取る習慣があった。

問題は、王朝が交代するたびに起きた。旧王朝の姓を名乗り続けることは、新王朝にとって反体制の象徴と見なされかねない。下手をすれば追放、最悪の場合は命に関わる。だから人々は政権交代のたびに、新しい王朝の姓へと乗り換えた。いわば、姓の変更は生存戦略だったのだ。

そしてグエン朝(1802–1945)はベトナム史上最後の王朝だった。最後の王朝であるがゆえに、その後に「乗り換えるべき新しい姓」が現れなかった。こうしてグエン姓は、歴史の最終レイヤーとして大量に残ったのだ。

さらにグエン朝自体が大量の子孫を残している。初代皇帝ザ・ロン(嘉隆帝)は100人以上の側室を持ち、第2代ミン・マン(明命帝)には公式に記録された子どもだけで142人いた。王家そのものの繁殖力も、グエン姓の拡大に拍車をかけた。

ちなみに、2位のチャン(陳)は陳朝(1225–1400)、3位のレー(黎)は黎朝(1428–1789)、リー(李)は李朝に由来する。姓のランキングは、そのまま王朝史の年表を映しているのだ。

北部と南部で比率が違う

興味深いことに、グエン姓の比率は地域で異なる。北部では約48%がグエン姓だが、南部では約28%にとどまる。北部はかつて多くの王朝が集中した文化発祥の地であり、姓の画一化が進みやすかった。一方、南部の中心地ホーチミン市は古くから外国との交易が盛んで、人の流入も多く、姓のバリエーションが比較的保たれている。

また、同じ漢字でも北部と南部で発音が異なる姓がある。「黄」は北部では Hoàng(ホアン)、南部では Huỳnh(フイン)と読む。国内でも統一されていないのだ。

姓ランキング TOP14

順位姓(ベトナム語)カタカナ読み漢字人口比(概算)
1Nguyễnグエン約40%
2Trầnチャン約11%
3レー約9.5%
4Phạmファム約7%
5Hoàng / Huỳnhホアン / フイン
6Phanファン
7Vũ / Võヴー / ヴォー
8Đặngダン
9Bùiブイ
10Đỗドー
11Hồホー
12Ngôゴー
13Dươngズアン
14リー

ベトナムの姓の種類は約250種類と言われているが、上位14姓で人口の大半を占めている。日本の姓が10万種以上あることを考えると、その集中度がいかに異常かがわかるだろう。

ベトナムでは「名前」で呼ぶのが絶対ルール

ここが日本人にとって最も重要なポイントだ。

ベトナムでは、相手が社長であろうと大統領であろうと、呼ぶのは「名(テン)」の部分。姓では呼ばない。理由は単純で、グエンさんだらけの国で「グエンさん!」と呼んでも、誰のことだかわからないからだ。

たとえば「Ngô Đình Diệm(ゴ・ディン・ジエム)大統領」は、「ゴ大統領」ではなく「ジエム大統領」と呼称される。ヴォー・グエン・ザップ将軍も「ヴォー将軍」ではなく「ザップ将軍」だ。敬称は姓ではなく名に付けるのが、ベトナムのルールなのだ。

姓で呼ぶことが許されるのは、きわめて限定的な場面に限られる。ホー・チ・ミンを「ホーおじさん(Bác Hồ)」と呼ぶのは、国家の父に対する最大級の敬意の表現であり、例外中の例外だ。

敬称の仕組み ― 年齢と関係性がすべて

ベトナムの敬称は、日本の「さん」「様」とは根本的に異なる。年齢差と関係性に基づいて、使い分けが必要になる。

  • Anh(アイン):自分より少し年上の男性(兄)
  • Chị(チ):自分より少し年上の女性(姉)
  • Em(エム):自分より年下の人(性別問わず)
  • Cô / Dì(コー / ズィー):親の世代の女性(おばさん)
  • Chú / Bác(チュー / バック):親の世代の男性(おじさん)
  • Ông / Bà(オン / バー):祖父母世代の年配者

初対面で年齢を聞くのは、ベトナムでは失礼ではない。適切な敬称を使うための必要な情報だからだ。逆に、年上の人を「Em」と呼んでしまうのは大変な失礼にあたる。

ベトナムは夫婦別姓 ― 結婚しても名前は変わらない

ベトナムは夫婦別姓だ。結婚しても妻が夫の姓を名乗ることはない。

子どもは基本的に父親の姓を受け継ぐが、母方の姓を継ぐケースや、父方と母方の両方の姓を名前に組み込むケースもある。

たとえば、父がNguyễn Văn Nam、母がLê Thị Lamの場合、子どもの名前は「Nguyễn Lê Ngọc Thảo」のように、父の姓を正式な姓とし、母の姓を第2のミドルネームとして入れることがある。

名前に込められた意味 ― 男女で異なる傾向

ベトナムの名前には、ほぼすべてに漢字由来の意味がある。日本人なら漢字を見ればニュアンスが掴めるはずだ。

男性に多い名前

名前カタカナ漢字意味
Dũngズン勇気、勇敢
Hùngフン英雄、力強さ
Minhミン聡明、明るい
Đứcドゥック道徳、美徳
Longロン龍、力の象徴
Quangクアン光、輝き
Thắngタン勝利
Tríチー知/智知恵
Namナム南、男性
Hảiハイ海、広大さ

女性に多い名前

名前カタカナ漢字意味
Lanラン蘭の花、気品
Hươngフオン香り、芳香
Maiマイ梅の花、忍耐
Thủyトゥイ水、柔軟さ
Xuânスアン春、若々しさ
Ngọcゴック宝石、高貴さ
Liênリエン蓮の花、清廉
Thuトゥー秋、落ち着き
ハー川、穏やかさ
Mỹミー美しさ

男女共に使われる名前

An(安)、Anh(英)、Khánh(慶)、Minh(明)、Thanh(青/清)、Phương(方/芳)など。ミドルネームや文脈で性別が判断されることが多い。

男性名は「強さ」「知恵」「勝利」など力強い概念が多く、女性名は「花」「香り」「水」「季節」など自然の美しさに結びつくものが多い。日本の命名傾向とも共通する部分があり、漢字文化圏の名残が感じられる。

ニックネーム文化 ― 本名より先にあだ名がある

ベトナムの家庭では、子どもに正式な名前とは別にニックネームをつけるのが一般的だ。

動物、果物、お菓子の名前がニックネームとして使われることが多い。「クマ」「桃」「小鳥」など、日本人の感覚からすると少し驚くかもしれないが、ベトナムでは幼少期のニックネームが大人になっても使われ続けることがある。

同じ名前の人が集まる場面では、身体的特徴を付けた呼び分けも発生する。「のっぽのナム」「鼻歌のクイン」といった具合だ。また、同名の男女がいる場合はミドルネームを使って「ヴァン・ビン(男)」「ティ・ビン(女)」と区別することもある。

ちなみに、日本人の名前はベトナム人にとっては長くて覚えにくいらしい。「よこた」「よしだ」「よしかわ」の区別がつかないという声もある。親しくなったら短いニックネームを教えてあげると、コミュニケーションがぐっと楽になる。

海外に出たベトナム人の名前事情

海外在住のベトナム人は、名前の順序を現地に合わせることが多い。Nguyễn Thị Minh は海外では「Minh Nguyen」あるいは「Mina Nguyen」のように、名→姓の順に並べ替え、通称名を設定するケースも一般的だ。

また、声調記号(ベトナム語の発音に不可欠なダイアクリティカルマーク)が省略されることも多い。「Nguyễn」は英語圏で「ニューエン」「エンギュイエン」と読まれ、そのまま正式な発音として受け入れる在外ベトナム人もいる。

この国の名前は、中国を映す鏡である

ここまで読んで、勘の鋭い人なら気づいたはずだ。「これ、中国とかなり似ているのでは?」と。

その直感は正しい。

ベトナムの人口の約90%を占めるキン族(京族、Người Kinh)のルーツは、現在の中国南部に遡る。ベトナムは紀元前111年から西暦938年まで、約1,000年にわたり中国の支配下にあった(北属期)。この間に漢字の使用、儒教の価値観、そして姓名の形式が深く根づいた。

名前の構造が「姓→ミドルネーム→名」の順であること、姓が漢字由来であること、儒教的な美徳が名前に込められること—これらすべてが中国文明の影響だ。

実際、ベトナム語の音の響きには中国語の広東語との類似性がある。6つの声調を持つベトナム語と、広東語の声調体系には構造的な共通点がある。空港のトランジットで耳にすると、一瞬どちらの言語か判断がつかないこともある。

まとめ ― 名前を知れば、その国が見えてくる

ベトナム人の名前は、単なる個人の識別子ではない。1,000年の王朝史、中国文明の影響、儒教の価値観、南北の地域差、そして現代のジェンダー意識の変化—これらすべてが、たった3音節の名前に凝縮されている。

ベトナムを旅するなら、あるいはベトナム人と仕事をするなら、覚えておくべきことは3つだけだ。

  1. 姓ではなく「名」で呼ぶ。 グエンさんと呼ぶのは、日本で「日本人さん」と呼ぶようなもの。
  2. 年齢を聞くのは失礼ではない。 適切な敬称を使うための情報収集だ。
  3. 名前の意味を聞いてみる。 ベトナム人は自分の名前の漢字の意味を知っていることが多い。「いい名前ですね」は、最高のアイスブレイクになる。

名前を正しく呼ぶこと。たったそれだけのことが、ベトナムでのコミュニケーションの質を劇的に変える。

本記事の情報は2026年3月時点のものです。


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